和田典子『女生徒の進路』(岩波ジュニア新書 1981)を半分弱ほど読む。
本日読んだ小倉千加子さんの『結婚の条件』の補足資料のつもりで手に取ってみた。
ただ、小倉さんの現代的な丁寧な語り口とは雰囲気を大きく異にする。商店街の中にある古本屋の本棚の上で埃をかぶっている岩波講座に出てくるような内容であった。参考文献にも「赤旗」や「新婦人しんぶん」が挙げられ、共産党の色が濃くなっている。また、学生時代に『社会発展史入門』や『空想から科学へ』を読んで、科学的社会主義を学ぶサークルに入って自分の専門を決めることができた女子学生の例や、朝鮮戦争の頃の組合活動で知り合った男性との自由恋愛、細井和喜蔵『女工哀史』や山本茂実『あゝ野麦峠』などの過酷な労働条件からの改善運動などの話が紹介されている。
しかし、果たしてこんな堅苦しい内容が、1980年代の中高生に受け入れられたのであろうか。疑問を禁じ得ない。1950年代の間違いではないのか。
日別アーカイブ: 2015年1月27日
政党助成法廃止法案
本日の東京新聞朝刊だが、「生活の党と山本太郎となかまたち」(^ ^)の人事に関する記事と、新党「日本を元気にする会」(ー ー;)の会派名変更の記事の隣に、これ見よがしに、共産党が政党助成法を廃止する法案を衆院に提出したとの記事が載っていた。
志位和夫委員長は記者会見で、「国民一人当たり250円を、支持していない政党にも寄付させられる憲法違反の制度だ。多くの党で過度な依存状態が生まれ、堕落を招いている」と理由を説明している。
一概に政党助成法を悪法だと決め付けることはできないが、政党助成金を受け取る基準を満たすためだけに離合集散する政治屋の報道を見るにつけ、然もありなんと思ってしまう。
テント日誌より
経産省前テント広場のメーリングリスト(1月25日)より
知事選に続き衆院選でも沖縄では惨敗した安倍政権はそれを無視し、前知事仲井真の裏切行為と呼ぶほかない埋め立て承認を手掛かりに辺野古の埋め立てを強行せんとしている。口を開けば「法治国家」だ「反テロ」というが、どこに法治国家があるのか。国民の意思を無視することと「法治国家」の存在はどう関係するのか。聞いてみたいものだ。法治国家は彼らには都合のいい言葉に過ぎず、国民の意思が憲法を作り、それによって政治(権力行使)を行うという原則は彼らの行為にはない。辺野古の基地についての沖縄県民の判断は憲法的な判断である。あのような意志は憲法を作りだした意思と同じである。憲法(法治国家)の何かを沖縄の国民の行為は示している。安倍政権の体質と行為は「法治国家」などご都合的な言葉だが、僕らはそれには騙されやしないのである。
「イスラム国」のテロ行為を批判するのはいい。これについてはいろいろと意見もあるが、このことで、今、安倍政権が沖縄に向けてやっている行為はごまかされない。安倍が沖縄でやっていることは専制的で、強権的な国家行為であり、これは国家(権力)によるテロ行為ではないのか。「イスラム国」のテロ行為を批判するのはいいが、だからと言って自国民に向けられたテロ的な行為を僕らは見逃さない。
1月17日には「女の平和」を合言葉に7000人の人々が国会を包囲し、安倍の積極的平和主義という名による戦争主義(戦争を普通のこととしてやるという考え)を批判した。日本が戦後に国家行為として禁じてきた戦争を積極的平和主義の名で破る行為は許されない。これは基盤的には高度成長経済に行き詰まった日本経済が金融経済と軍事経済に活路を求めたアメリカ経済の模倣に走ろうとしていることがある。軍事経済や軍需生産に高度成長後の道を見出そうとしている。武器輸出の規制を緩和し、原発を輸出することも関連するが、軍事生産拡大の道に歩を進める。結局、アメリカが冷戦構造崩壊後も戦争への道を止められなかった歴史を安倍は経済的基盤の方から後追いしているのである。集団的自衛権行使容認はその政治的対応である。アメリカの要請だけではなく、日本経済の面から出てきたこの道は危険な道である。アベノミクスの隠された実体がここにあるが、政治と経済の両面からの戦争への道が出てきたこの匂いに僕らは敏感でなければならない。安倍の中東訪問とそこでの演説にこうした匂いを人々が察知していることを僕らは知らねばならない。
女性の声を中心に盛り上がった安倍の積極的平和主義批判(集団的自衛権行使容認批判)は現在から未来にかけての日本の政治的動向への警鐘であり、多くの共感を呼ぶものだった。1月17日と1月25日、赤と青の彩りで発せられた安倍批判は僕らが共有していくべきものだろう。(三上治)
自己責任論
本日の東京新聞朝刊コラムに、イスラム過激派「イスラム国」とみられるグループに邦人2人が人質に取られた事件で、「自己責任」という批判が国内から上がっている背景について取り上げられていた。記事によると、ネット上には「自分で勝手に行って迷惑をかけてる」「自己責任でいいんじゃないの。戦場なんだから」という書き込みが相次いでいるそうだ。
こうした主張について、北海学園大の本田宏教授は「被害者側に落ち度はある。だが、それとは無関係に、国家には国民を救う義務がある。本来、守られるべき国民の側から『自己責任』と突き放すのは、はなはだおかしい」と首をひねる。
日本弁護士会連合の会長を務めた宇都宮健児弁護士は「Franceでは風刺画が原因のテロ事件後、大統領が反テロの大行進に参加した。殺人は最大の人権侵害と認識されているからだ。日本では個人の人権より、国家が先に来る。戦前の全体主義的な考え方から抜け切れていないから、巻き起こる」と苦言を呈している。
また、昨年、「自己責任論の嘘」を出版した宇都宮弁護士は、多重債務問題と合わせて「『高金利を知ってて借りた。自己責任だ』と多重債務者は責められるが、実は本人が一番責任を感じている。生活保護バッシングも似ている。人質事件の被害者も責任を感じているはずで、彼らを責めることは弱い者いじめでしかない」「非正規雇用による貧困問題も、無責任な政治家による制度の欠陥の放置による要因が大きい。それを覆い隠すには自己責任論が便利」と指摘する。
本田教授も宇都宮弁護士に同意し、「自己責任論は政府を無責任にする。結果として、問題が起きても政府は何もせず、『自分でどうにかしろ』ということ。新自由主義の台頭とも関係があるのだろう。国民の側から言いだすべき言葉ではない」と述べる。
この「自己責任」という言葉の扱いについては注意したい。今回のテロや多重債務、生活保護といった政治問題だけでなく、私もついつい相手に責任をなすりつける便利な言葉として多用してしまう。だが、その言葉の裏には、丁寧に責任をもって説明なり説得をしてこなかったこちらの側の瑕疵が含まれていることを忘れてはならない。
『結婚の条件』
小倉千加子『結婚の条件』(朝日新聞社 2003)を読む。
かなり長い間本棚に眠っていた本である。
influenzaの薬の副作用でボオーッとした頭でも読みやすい本はないかと、本棚の奥から引っ張り出してきた。
2002年から2003年にかけて雑誌「一冊の本」(朝日新聞社)に連載されたfeminism論がまとめられている。
雑誌媒体に掲載されていた内容なので、当時の芸能人の恋愛事情や女性誌のタイプなどよく分からない例もあったが、女性・男性を問わず、結婚が難しくなった時代をうまく分析していた。
筆者は女性の立場から、学歴や母親の期待、自己投資、主婦という選択、結婚相手としての女性の価値、女性の「勝ち組」基準などなど、他人よりも上に行けば良しとする男性の価値基準よりも、複雑怪奇に入り組んだ女性ならではの生き方の難しさを丁寧に紐解いていく。
結婚の難しさを、単に収入や容姿、恋愛の上手下手の問題に限定させず、教育や学歴、世代の問題にまで拡げていく意欲作となっている。
「婚活」という言葉もなく、「格差」もまだ今ほど人口に膾炙していなかった2003年の段階で、筆者は次のように論をまとめる。
女子学生は、現在の自分の生活水準を保障してくれる男を探し、男子学生はユートピア的場所となる女を探す。しかし、そんな理想の相手はどこにもいない。いやしかし、理想の相手を見つけて幸福な結婚をしている人は現にいるではないか。自分はなぜそこから締め出されるのか。なぜ夢を追ってはいけないのか。夢を実現した一部の者への復讐の時代がこれからはじまると、私は密かに覚悟しているのである。