「大学-知の技術化を越えて」

情況出版社刊「大学-知の技術化を越えて」『情況』(1996年7月号,情況出版)をパラっと読む。
タイトルにある「知の技術化」といっても、30年前の雑誌なので、ピンとこないであろう。当時の東京大学教養学部から刊行された「知の技法」「知の論理」「知のモラル」の3部作に代表される、旧制高校的な教養を指している。そうした「知の技術」を越えていくといった情況出版な
学生時代にリアルタイムで購入したものである。確か、このタイトルを利用して「知の解体」という講演会を行ったと記憶している。
和光大学教授の上野俊哉氏は、「造反もしない奴に学問なんてできない」の中で、次のように述べている。

今やいたるところで「わかりやすさのファシズム」が吹き荒れている。新聞、テレビ、音楽、映画……どこでも「わかりやすさ」が至上の価値だ。思想の世界でも、わかりやすければ先の侵略戦争における自国の戦死者をとむらうことが侵略で殺された死者を悼むことよりも先だ、などという右翼同前の主張をしてもよいらしい。哲学もまた「わかりやすさ」の犠牲になって、三流以下の小説のネタにされたり、概説と入門のスタイルでしかものが考えられないライターたちの道具にされている。
大体、ぼくたちが生きているこの現実が決してわかりやすいものではありえないのに、それを語る言葉がそうそう「わかりやすい」ものになるわけがない。誰もがわかるように何かを説明することと、誰にも考えつく程度でしか語らないこととは根本的に異なるはずだ。専門語を使わず、改行をふやし、やさしい言葉で語る学者、評論家、ライターのたぐいの罪は重い。実はかげで「教養」を独占するという意味では、かつての「大学」の体制よりもひどいかもしれない。水増しのクラックみたいな言葉で半端な知のジャンキーが増えていくばかりだ(「ニューアカ」の制度化ヴァージョンとも言うべき「知の技法」三部作のなかにもこういうゴミが混じっている)。