杉田聡『クルマを捨てて歩く!』(講談社+α新書 2001)を読む。
北海道の帯広でクルマなしの生活を続ける著者がクルマを捨てることによって、無駄な維持費(一生の間に4000万近くも!)が無くなり、安全な生活圏が確保され、そして子どもの教育にも効果があると提言する。この中で特に道が子どもの遊び場であるという意見が興味深かった。確かに私自身も団地の内の路上で落書きをし、缶けりをし、キックベースを楽しみ、一輪車やローラースケートに乗り、ラジコンを走らせていた。著者は次のように述べる。
子どもにとっては、道こそがもっともよい遊び場だと私は思います。家やお店が建ち並び、いろんな人や物が往来する道自体が子どもには面白いのです。児童公園にも学校の「校庭開放」にもない、遊び場としての決定的に大事な要素を道は備えています。それは、どの年齢の子どもにとっても家のすぐ近くにあり、自由に行き来でき、だから安心できる空間だということです。道は、子ども同士のネットワーク空間です。道が遊び場なら、電話で約束などしなくても、ちょっと外に出れば遊び相手が見つかるでしょう。年齢の違う子ども同士の遊びも始まるでしょう。
確かに渋谷センター街などの繁華街の路上は、10代後半の若者にとって著者の指摘する年齢を越えた遊びの場となっている。しかし10代前半までの小学生の遊び場はここ埼玉でもほとんど見られない。大人から見ればグランドなり校庭で遊ぶのが健全な子どもの姿であろうが、子どもにとっては整備された空間よりも、一定無秩序な路上の方が勝手に他人の庭に忍び込んだり隠れたりする「すき間」が多くて楽しいのだ。横浜郊外の住宅地に育った私自身も小学生の頃は、わざわざ自転車に乗って公園に行くよりも、おもちゃ屋や駄菓子屋周辺や、排水路の周囲で遊ぶ方が刺激があったと記憶している。子ども心に学校の校庭で遊ぶのは大人の管理下で遊んでいるような居心地の悪さがあったのではないか。確かピーターラビットの絵本にも、うさぎの子ども達が農家のマクレガーさんの畑に忍び込んで無邪気に遊ぶシーンがあった。現在私も職場まで3キロ程しかないのに毎日クルマを使っているので、反省することししきりであった。クルマを排除することで現れてくる社会や遊びの中に、実は子どもの成長にとって大切なものが積み込まれていることを頭の片隅でも意識しておきたい。