第66回芥川賞受賞作、李恢成『砧をうつ女』(文芸春秋 1972)を読む。
朝鮮人学校の問題を研究集録にまとめようと読み始めた本である。芥川賞を受賞した作品であるが、日本の小説にありがちな展開でつまらなかった。しかし、同作品に集録されていた『半チョッパリ』が面白かった。帰化に悩む大学生が主人公なのだが、日本人として学生運動に参加出来ず、かといって在日の祖国運動にも参加出来ず、ペーパー韓国人である「半チョッパリ」の位置の悪さに辟易している主人公悩みが吐露されていた。子どもが反対しているにも関わらず帰化しようとする父との対立は国家の分裂が家族の分裂に投影されてしまう現実を表していた。またラストシーンで主人公祖国ソウルに行くのだが、そこでは「倭奴」と捨て台詞を吐かれ排斥されてしまう。しかし主人公は最後自らの「半チョッパリ」という立場を肯定しようとする。
自分を愧じる気持にはげしく襲われていた。半チョッパリの誇りを取り戻さねばと考えた。いまはどのようにも振舞える自分を僕は確認しようと思うのだ。一台の自転車にプラスチック製の石油カンをつんで走り出すことも、この森のざわめきに身を投じることも、まったく自由であった。それは生と死を自分が支配している実感で僕は幸福にした。めくるめくような思いが躯を走っていた。
祖国よ、祖国よ! 統一祖国よ! 僕は心から叫んだ。いま僕は死ぬことも生きることもできた。そして、半チョッパリとして祖国にそのように叫びかけることも自由であるにちがいなかった。
久しぶりにどきどきする小説であった。日本と韓国の間で、市民と非市民との間で、社会人と大学生の間で揺れ動く主人公の自己肯定はどちらに属することでも、どちらを捨てることでもなかった。このような生き方が今の時代こそ求められている気がする。