月別アーカイブ: 2018年1月

『世界仰天旅行』

酒井ひかり『世界仰天旅行』(彩図社 2010)を読む。
地図帳片手に国や首都名を確認しようと手に取ってみた。ブログのような内容で一気に読み終えた。
しかし、海外の観光地の紹介はほとんどなく、著者が出会った海外のガイドや運転手の悪行への文句や同行者の奇行に対する愚痴が延々と続くだけで、ほとんど読むべきところがなかった。

『文章の書き方』

尾川正二『文章の書き方』(講談社現代新書 1982)を手に取る。
伝わる文章の書き方というよりも、小説から例文を集め、美文名文について解説するというスタイルで、ハードルが高すぎた。
ここしばらく本棚にある国語教育関連の本を処分しようと思い片っ端から取り出している。いつかは読もうと思い保管していた本であるが、結局読まず終いだったのは少々寂しい気もする。

『中学入試のために 新聞で鍛える国語力』

町田守弘『中学入試のために 新聞で鍛える国語力』(朝日新書 2010)をパラパラと読む。
著者は国語教育の専門家で、現在も教壇に立っている。20年前に半年か一年ほど、講義を受けていたと記憶しているのだが、そもそも出席をしていなかったので、授業の内容も著者のことも全く覚えていない。
朝日新聞の記事をもとに入試を作成している首都圏の中学校入試を取り上げ、設問の狙いや解説が丁寧に説明されている。タイトルに「中学入試のために」とあるが、小学校6年生を対象としたものでない。入試作成担当者にとってはこれ以上の福音書はないであろう。

『国語のできる子どもを育てる』

工藤順一『国語のできる子どもを育てる』(講談社現代新書 1999)を読み流す。
これまた随分長いこと本棚の奥に鎮座していた本である。
著者は本書の中で、以下のような問題意識を示した上で、思考していく材料となる本の紹介や、豊かに読み取り、表現するという本来の国語の力を育成する案を提示している。

大学受験の参考書にハンで押したように書かれている国語読解問題の解答法とは、「自分で解釈せずに、本文に書かれていることだけが解答」ということです。確かに、文章に書かれていることを無視してその文章の勝手な主観的な解釈はあり得ません。しかし、これが強調され過ぎると、それこそ角をためて牛を殺すことにつながらないでしょうか。つまり、書かれていることから刺激を受けて、より新しい読み取りとか、再創造的な解釈が生まれる=実はそれこそが本当の読解につながっていくかもしれないのに、その読みの可能性をも殺してしまうことにならないだろうかと危惧します。

読解問題を解く生徒は文章を「読みとる」というよりも、指令に基づいて指令にかなう情報を本文から「さがす」作業で根気のいる作業をいやがります。すんなりと理解でき、自分には異論すらあると思われる文章でこのことを強制されると、あとはもうどうしても辛抱とか根性とか注意力だけのことになってしまい−もちろんそれもまた必要な一般的な能力ですが−知性とか理性とか読解力とか想像力とか創造力の発動以外の問題になってしまいがちです。

(中略)たとえば中学受験の例で、小学校3年生あたりから、このような学習ばかりしていると、6年生ではもう立派な、確固たる国語ぎらいの子どもができてしまいます。簡単な情報処理という面での国語の成績は非常にいいのですが、書けない、すなわち世界を読めない、そして、じっくりものを考えることをしない、すなわち本を読むことを知らない子どもたちです。

もちろん、彼や彼女は、そのような性格の試験問題を突破して優秀な官僚あるいは会社員になることができると思いますが、実人生や実社会の問題に対しては、まともな対処も解決もできません。とりわけ、現在のように社会や人間の根本的なシステム自体に大きな変化がこようとしているときに、正解などどこにもなく、ときには何年あるいは何十年もかけて一つの問題に取り組み、解決していかなければならないものばかりが積み重なっている時代には、もう適応すらできないでしょう。私たちは本来、すこしでもそこに役立つために本を読み、そのためにこそ読み書きを学ぶはずではなかったのかと思わずには入られません。

 

『理想の国語教科書』

齋藤孝『理想の国語教科書』(文藝春秋 2002)をぱらぱらと読む。
著者の主宰する漱石や鴎外、ゲーテ、シェイクスピアの作品の一部が取り上げられた教科書スタイルの内容となっている。随分昔に買った本で、ずっと本棚の奥に眠っていたものである。
あとがきの中で、編者は次のように語る。

 私の考えでは、国語は体育だ。漢字や文法上の事項は、取り上げる文章とは別に、純粋にトレーニングすべきである。授業中に漢字の書き取りを徹底して反復練習すれば、少なくとも学年配当の漢字は身につけさせることができるはずである。その上で、レベルの高い文章を大量に子どもに出会わせることが必要だ。
文章には、密度やレベルの違いが当然ある。シェイクスピアやゲーテ、漱石らの名作は、文章としてそれらの絶対値が高い。小学生がそれをすべて吸収できるわけではないが、総量が多い分だけ受け取るものも多い。比喩として言えば、全体量が十のものを徹底的に吸収したとしても、9.5程度にしかならないが、総量が百のものに出会えば、悪くても二十〜三十の吸収がある。これが「下げ止まり」という考え方だ。
授業は当然、教師の質によってその質が左右される。内容の薄い文章でも深い吟味ができる教師はレベルが高い。しかし、教師の役割を、細かな解釈を手助けするものとしてではなく、最高に優れた作品に出会う機会をつくる人間として捉える方が、「下げ止まり」がある。つまり、本物がもつ迫力を子どもが感じるだけでも大きな意味があるということだ。