工藤順一『国語のできる子どもを育てる』(講談社現代新書 1999)を読み流す。
これまた随分長いこと本棚の奥に鎮座していた本である。
著者は本書の中で、以下のような問題意識を示した上で、思考していく材料となる本の紹介や、豊かに読み取り、表現するという本来の国語の力を育成する案を提示している。
大学受験の参考書にハンで押したように書かれている国語読解問題の解答法とは、「自分で解釈せずに、本文に書かれていることだけが解答」ということです。確かに、文章に書かれていることを無視してその文章の勝手な主観的な解釈はあり得ません。しかし、これが強調され過ぎると、それこそ角をためて牛を殺すことにつながらないでしょうか。つまり、書かれていることから刺激を受けて、より新しい読み取りとか、再創造的な解釈が生まれる=実はそれこそが本当の読解につながっていくかもしれないのに、その読みの可能性をも殺してしまうことにならないだろうかと危惧します。
読解問題を解く生徒は文章を「読みとる」というよりも、指令に基づいて指令にかなう情報を本文から「さがす」作業で根気のいる作業をいやがります。すんなりと理解でき、自分には異論すらあると思われる文章でこのことを強制されると、あとはもうどうしても辛抱とか根性とか注意力だけのことになってしまい−もちろんそれもまた必要な一般的な能力ですが−知性とか理性とか読解力とか想像力とか創造力の発動以外の問題になってしまいがちです。
(中略)たとえば中学受験の例で、小学校3年生あたりから、このような学習ばかりしていると、6年生ではもう立派な、確固たる国語ぎらいの子どもができてしまいます。簡単な情報処理という面での国語の成績は非常にいいのですが、書けない、すなわち世界を読めない、そして、じっくりものを考えることをしない、すなわち本を読むことを知らない子どもたちです。
もちろん、彼や彼女は、そのような性格の試験問題を突破して優秀な官僚あるいは会社員になることができると思いますが、実人生や実社会の問題に対しては、まともな対処も解決もできません。とりわけ、現在のように社会や人間の根本的なシステム自体に大きな変化がこようとしているときに、正解などどこにもなく、ときには何年あるいは何十年もかけて一つの問題に取り組み、解決していかなければならないものばかりが積み重なっている時代には、もう適応すらできないでしょう。私たちは本来、すこしでもそこに役立つために本を読み、そのためにこそ読み書きを学ぶはずではなかったのかと思わずには入られません。