田嶋一・中野新之祐・福田須美子『やさしい教育原理』(有斐閣 1997)をぱらぱらと眺める。
大学の教育原理の授業で使われる教科書で、各章各項ごとに参考文献が挙げられ、「教育とは」「人間とは」「学校とは」「青年とは」「教育評価とは」などの言葉の定義から話が始まる。教育というと個人の体験で語られがちで、どうしても一方に主張が偏りがちだが、筆者の主観的な見解は極力退けられ、道徳や学力、いじめなど評価の分かれる項目については両論併記が徹底されている。
体裁だけでなく内容も典型的な文科省お墨付きの教科書といった風で、学生時代の拒否反応で、全く頭に入ってこなかった。
日別アーカイブ: 2018年1月14日
「両陛下の憲法への思い」
本日の東京新聞朝刊に、日本文学研究者ドナルド・キーンのコラムの中で、今上天皇との思い出が綴られていた。キーン氏は1953年以来の付き合いである両陛下について次のように語る。
(疎開で移動を繰り返し、焼け野原になった東京の惨状に心を痛めた)体験があるからだろう。陛下は、戦後の平和憲法に忠実であろうとしている。職業選択の自由や選挙権も持たず、政治的発言を許されない象徴天皇には、行動だけが意思表示の術なのかもしれない。戦争を反省し、恒久平和を希求して、国内外の数々の激戦地を回った。(中略)過激派から火炎瓶を投げ付けられても、沖縄で20万人が犠牲となったことに「一時の行為によってあがなえるものではなく…」と談話を出した。
そして、雲仙普賢岳や阪神大震災、東日本大震災の避難所で、ひざまづき被災者と同じ目線で語り続けた陛下について次のように語る。
昭和までと比べて、今上天皇は革命的といっていいほど違う。戦没者や被災者への思いを率直に語られ、小学校では子どもに話し掛けられたりする。それも、易しい現代の日本語で誰にでも分かりやすく話す。
私は九条で平和主義をうたう日本国憲法は、世界で最も進んでいる憲法だと思う。憲法に変わりうる点はあるだろうが、九条を変えることに私は強く反対する。その九条を両陛下は体現されているかのようだ。
憲法には男女同権も明記されている。過去には存在した女性天皇や女系天皇を認めないのは、どういうことなのか。表現の自由を持たない両陛下の憲法への思いにこそ、私たちの忖度が必要ではないかと思う。
中野重治の『五勺の酒』と同様の問題が提示されている。現憲法で基本的人権を奪われた形になっている天皇個人に対しては、国民全体が「保護者」となり、天皇の気持ちを汲み取る必要があるのではないか。
『透明な遺書』
内田康夫『透明な遺書』(講談社 1994)をだいたい読む。
「長編本格推理」と銘打ってある通り、政界の収賄疑惑やリゾート開発に、現職警官の犯行や暴力団問題なども絡んできて、1992年当時の新聞を賑わせたテーマが盛り込まれている。しかし、内田氏の持ち味である旅情気分を味わうことも歴史の闇に惹き込まれることもなく、最後は飽きてしまった。
四半世紀前の本であるが、政界の汚職の証拠を握った登場人物の次のやりとりが印象に残った。今の安倍総理に関するモリカケ問題と北朝鮮報道をそのまま評している。
「(告発する)機は熟しすぎるほど熟しています。この機を逃せば、あるいは永久にチャンスを逸するかもしれません。人の気持ちは移ろいやすいものですからね。現に、国会やマスコミの関心はすでに勢和疑惑から離れて、平和維持軍に自衛隊を派遣するかどうかに移りつつあります。」
「そうですな。いつの場合もそうでしたな。何か体制側にとって都合の悪い不穏なことが起きると、それを上回る話題を作って、そっちへ関心を振り向ける。どこの国でも、それが政府のやり方です。そのうち、国家非常事態宣言などというものまで飛び出すかもしれない」