齋藤孝『理想の国語教科書』(文藝春秋 2002)をぱらぱらと読む。
著者の主宰する漱石や鴎外、ゲーテ、シェイクスピアの作品の一部が取り上げられた教科書スタイルの内容となっている。随分昔に買った本で、ずっと本棚の奥に眠っていたものである。
あとがきの中で、編者は次のように語る。
私の考えでは、国語は体育だ。漢字や文法上の事項は、取り上げる文章とは別に、純粋にトレーニングすべきである。授業中に漢字の書き取りを徹底して反復練習すれば、少なくとも学年配当の漢字は身につけさせることができるはずである。その上で、レベルの高い文章を大量に子どもに出会わせることが必要だ。
文章には、密度やレベルの違いが当然ある。シェイクスピアやゲーテ、漱石らの名作は、文章としてそれらの絶対値が高い。小学生がそれをすべて吸収できるわけではないが、総量が多い分だけ受け取るものも多い。比喩として言えば、全体量が十のものを徹底的に吸収したとしても、9.5程度にしかならないが、総量が百のものに出会えば、悪くても二十〜三十の吸収がある。これが「下げ止まり」という考え方だ。
授業は当然、教師の質によってその質が左右される。内容の薄い文章でも深い吟味ができる教師はレベルが高い。しかし、教師の役割を、細かな解釈を手助けするものとしてではなく、最高に優れた作品に出会う機会をつくる人間として捉える方が、「下げ止まり」がある。つまり、本物がもつ迫力を子どもが感じるだけでも大きな意味があるということだ。