牧野剛『河合塾マキノ流! 国語トレーニング』(講談社現代新書 2002)を手に取ってみた。
疲れた頭と乏しい読解力の中、ほとんど内容が入ってこなかった。ただし、あとがきの中の一節は印象に残った。牧野氏は執筆の最中、2001年の9月11日の米国同時多発テロで全てが狂ったと述べる。瞬間の映像は衝撃的で、続くアフガン爆撃や日本の参戦、世界の一方向への傾斜の中で、言葉を失ったという。
そして、続けて次のように述べる。
「私たちのベトナム反戦運動は無意味であったのではないか」という自己の人生への公開、そして歴史の価値の転換をも示唆しているかもしれない重大事態の登場と、テロの当の場面を、その瞬間に見てしまったという「原罪意識」は、私を容易に立ち直らせてくれなかったのである。
すべてをもう一度、根本から考え直さないと、自分の人生が上すべりになってしまうかもしれないという恐怖と、ひょっとすると自分自身、知らないふりをして関係ないように振る舞っているうちに、世界や社会と無関係になってしまっているのではないかという不安、自分が一番嫌っていた「自分だけの世界」にのめり込んでしまっていたのではないか、堕落したルーティン(日常的)ワークの中で自分を見失ってはいなかったか、とくに自分は他の人たちに比べれば社会性を持っているなどというなめた認識を、気づかないうちにまさか育ててしまったのか、などと夜を日に継いで考え込んでしまった。
私自身の東日本大震災との向き合い方を指摘されているような気がした。私もテレビであの惨事を目の当たりにし、実際に福島や宮城、岩手の3県を回ったものの、「自分だけの世界」の驚きだけに矮小化させてこなかったのか。十分な責任ある年齢に達しながら、主権者としての責務を果たしてこなかった過去への否定である。
何を整理し、行動していくべきなのか。