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流鏑馬 カザフで披露

本日の東京新聞夕刊に、中央アジアで初めてカザフスタンの首都アスタナで流鏑馬が披露されたとの記事があった。日本とカザフの外交関係樹立25年を記念し、ナザルバエフ大統領(なんと任期27年目を迎える)の前で、武田流流鏑馬を披露したとのこと。

カザフスタンは世界9番目の面積があり、地下鉱物資源に恵まれ、意外に日本とも交流が深い国である。ステップ気候であるが、チェルノーゼム(肥沃土)地帯に重なっており、世界有数の小麦の生産国となっている。遊牧民族の血を引いているからか、首都アスタナの名を冠した、国際自転車競技連合 (UCI) の主催するUCIプロツアーに参加する自転車ロードレースのプロツアーチームがある。

日本だけでなく、ロシアとも中国、米国、EUとも良好な関係を維持している穏やかな国である。北半球のオーストラリアか?

『くれない』

佐多稲子『くれない』(新潮文庫 1952)を少しだけ読む。
1936年に執筆された私小説で、夫の窪川鶴次郎の不倫に悩む進歩的女性の悩みが綴られる。
本編の方はあまり興味がなかったが、解説は盟友の中野重治が担当しており、これまた私小説風に畳み掛けるようなリズム感が良い。解説の中で、中野は1936年当時の共産主義運動について次のように総括している。

(佐多稲子・窪川鶴次郎を指すと思われる主人公の)明子・広介の問題はこの「転向時代」のなかで起っている。ここで「転向」というのは、日本の革命家ないし共産主義の一部あるいは相当の部分が、その立場をなげすてて明らかに戦線を失ったことを言っている。「時代」というのは、そのことが流行のようになり、時の勢いとなっていたことを指している。ここには沢山の問題があるが、直接ここの明子に関係させていれば、例えば転向者のあるものの表明した転向の弁の中身である。雑にいってそこにはこういういい方があった。自分はついに真の革命家ではなかった。はがねのような労働者ではなかった。自分はインテリゲンチャ分子として、社会の改革を夢みたことは本当だったけれども、最後までそれを実行上つらぬく力を持たなかった点、戦線全体を破壊にみちびいたものであった。中途半端分子をまじえることは却って戦線を脆くする。自分はつつましく去るべきである。またこういういい方もあった。あるいはあり得た。自分はついに本当の革命的労働者ではなかった。賃金その他のために資本家階級とたたかおうとしたことは事実だったけれども、社会革命の法則の理論的把握に欠け、労働者階級の先遣分子として、他の諸階級層をみちびきつつ道を終局まで歩くことができなかった。一人の労働者としてならばともかく、全革命陣列の主導的位置からは自分は去るべきである。こうして、それらがその通りだったとしても、脆い分子をさえ先頭分子として要求した日本の現実の歴史的要請は一と思いに抹殺され、撤退戦でのしんがりの、斬りまくり斬りまくりしながら一歩ずつ後退して行く全戦局的な意味が抹殺されて、抹殺されるやいなや、よしんば刀は振られていても、撤退はそのまま壊走に転化するということが見のがされ、それが流行をなした時代であった。

『怪盗グルーのミニオン大脱走』

カイル・バルダ、ピエール・コフィン監督『怪盗グルーのミニオン大脱走(Despicable Me 3)』(2017 米)を観に行った。
前々作を観ていないので、グルーと子ども達の関係などは良く分からなかったが、愛しいキャラクターや変形するカッコいいスポーツカー、悪党との体を張った対決など、子供版『007』のようなワクワクする映画だった。
真ん中の子どもも話が分かっており、満足したようだった。

『仮面の国』

柳美里『仮面の国』(新潮社 1998)を少しだけ読む。
随分長い間本棚の奥に眠っていた本である。サイン会中止事件の顛末や神戸連続児童殺傷事件、従軍慰安婦を巡る論争、「新しい歴史教科書をつくる会」との関わりが強い語調で語られる。
執筆当時の論壇時評なので、興味が湧かなかった。彼女の出世作となった、第116回芥川賞受賞作『家族シネマ』は秀逸だったのに。。。

『若い読者のための短編小説案内』

村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文藝春秋社 1997)を手に取ってみる。
タイトル通り、「第三の新人」と呼ばれる安岡章太郎、小島信夫、吉行淳之介、庄野潤三と、その前後に登場した長谷川四郎、丸谷才一の6人の短編を採り上げ、詳細な解説を加えている。
「はじめに」と「あとがき」しか読まなかったが、小説家はここまで物語を分析するのかと舌を巻いた。