佐多稲子『くれない』(新潮文庫 1952)を少しだけ読む。
1936年に執筆された私小説で、夫の窪川鶴次郎の不倫に悩む進歩的女性の悩みが綴られる。
本編の方はあまり興味がなかったが、解説は盟友の中野重治が担当しており、これまた私小説風に畳み掛けるようなリズム感が良い。解説の中で、中野は1936年当時の共産主義運動について次のように総括している。
(佐多稲子・窪川鶴次郎を指すと思われる主人公の)明子・広介の問題はこの「転向時代」のなかで起っている。ここで「転向」というのは、日本の革命家ないし共産主義の一部あるいは相当の部分が、その立場をなげすてて明らかに戦線を失ったことを言っている。「時代」というのは、そのことが流行のようになり、時の勢いとなっていたことを指している。ここには沢山の問題があるが、直接ここの明子に関係させていれば、例えば転向者のあるものの表明した転向の弁の中身である。雑にいってそこにはこういういい方があった。自分はついに真の革命家ではなかった。はがねのような労働者ではなかった。自分はインテリゲンチャ分子として、社会の改革を夢みたことは本当だったけれども、最後までそれを実行上つらぬく力を持たなかった点、戦線全体を破壊にみちびいたものであった。中途半端分子をまじえることは却って戦線を脆くする。自分はつつましく去るべきである。またこういういい方もあった。あるいはあり得た。自分はついに本当の革命的労働者ではなかった。賃金その他のために資本家階級とたたかおうとしたことは事実だったけれども、社会革命の法則の理論的把握に欠け、労働者階級の先遣分子として、他の諸階級層をみちびきつつ道を終局まで歩くことができなかった。一人の労働者としてならばともかく、全革命陣列の主導的位置からは自分は去るべきである。こうして、それらがその通りだったとしても、脆い分子をさえ先頭分子として要求した日本の現実の歴史的要請は一と思いに抹殺され、撤退戦でのしんがりの、斬りまくり斬りまくりしながら一歩ずつ後退して行く全戦局的な意味が抹殺されて、抹殺されるやいなや、よしんば刀は振られていても、撤退はそのまま壊走に転化するということが見のがされ、それが流行をなした時代であった。