月別アーカイブ: 2018年1月

『河合塾マキノ流! 国語トレーニング』

牧野剛『河合塾マキノ流! 国語トレーニング』(講談社現代新書 2002)を手に取ってみた。
疲れた頭と乏しい読解力の中、ほとんど内容が入ってこなかった。ただし、あとがきの中の一節は印象に残った。牧野氏は執筆の最中、2001年の9月11日の米国同時多発テロで全てが狂ったと述べる。瞬間の映像は衝撃的で、続くアフガン爆撃や日本の参戦、世界の一方向への傾斜の中で、言葉を失ったという。
そして、続けて次のように述べる。

「私たちのベトナム反戦運動は無意味であったのではないか」という自己の人生への公開、そして歴史の価値の転換をも示唆しているかもしれない重大事態の登場と、テロの当の場面を、その瞬間に見てしまったという「原罪意識」は、私を容易に立ち直らせてくれなかったのである。

すべてをもう一度、根本から考え直さないと、自分の人生が上すべりになってしまうかもしれないという恐怖と、ひょっとすると自分自身、知らないふりをして関係ないように振る舞っているうちに、世界や社会と無関係になってしまっているのではないかという不安、自分が一番嫌っていた「自分だけの世界」にのめり込んでしまっていたのではないか、堕落したルーティン(日常的)ワークの中で自分を見失ってはいなかったか、とくに自分は他の人たちに比べれば社会性を持っているなどというなめた認識を、気づかないうちにまさか育ててしまったのか、などと夜を日に継いで考え込んでしまった。

私自身の東日本大震災との向き合い方を指摘されているような気がした。私もテレビであの惨事を目の当たりにし、実際に福島や宮城、岩手の3県を回ったものの、「自分だけの世界」の驚きだけに矮小化させてこなかったのか。十分な責任ある年齢に達しながら、主権者としての責務を果たしてこなかった過去への否定である。
何を整理し、行動していくべきなのか。

『新・学問論』

西部邁『新・学問論』(講談社現代新書 1989)をパラパラと読む。
ちょうど先日亡くなったと報道で知り、本棚にあった本を手に取ってみた。
ちょうど人類学・宗教学者の中沢新一氏の東大駒場での着任を巡って、東大を退官した後に書かれたものなので、細分化されすぎた知のあり方や薄っぺらい虚学に終始する大学への強烈な批判が展開される。現代思想を駆使して書かれているので、小難しくてついていけなかったが、最後の大学の未来の章だけ読んだ。一部引用してみたい。素晴らしい内容である。
1990年代の「朝生」のイメージが未だに強いが、現在出演している三浦瑠麗と思想の根本で重なるところがあるのだろうか。

 

学生が真正の知識を学ぶのは、教授による一方的な授業を通じてであるとは考えられない。そうした知識に近づく第一の径路は、学生が古典とよばれる先人たちの営みに深く接することであろうが、しかしそれは、単なる見せびらかしの古典教養とは異なるものでなければならない。学生の生き方に密接にかかわるものとしてそれらの古典が解釈され、それが学生たちの精神の血肉と化すのでなければならない。しかし、多種類の授業からなるカリキュラムによって学生を選別することを主眼としているいまの大学に、そういう解釈作業を許す時間的余裕はないのである。また、教える教師のがわにしても、生き方に体化されるような解釈をほどこす準備をしているものは皆無に近いといえるだろう。というのも、そういう解釈のためには、古典との全人格的なかかわりが必要なのだが、現在の学者の人格は、現実社会との接触を欠いているために、おおむね歪曲を受けているからである。

すでに言及したように、真正の知識への歩みが進められるのは、授業よりもむしろ、教師を交えた討論の場のはずである。そうした討論の場は大学には存在しないに等しい。また、学生が真正の知識への糸口をみつけるためには、自分で論文を書き、それについて教師をはじめとする他者の批評に委ねるのが有効である。しかし、そういう論文作成、論文批評の場も大学にあって極限されている。これが大衆化された高等教育の偽らざる現状なのである。

かくして大学は高等教育を卒業したという看板だけが大事であるような、単なる儀式の場と化しつつある。その儀式が社会へ向けての人間の選別マシンそして配分マシンの役割を果たしている。それはそれなりに重要な機能ではあるのだが、しかし高等教育という形容からほど遠い教育であることは確かだ。したがって、イリイッチのような「脱大学」を奨励する思想家が現れるのも当然といえよう。

(中略)教授会自治について

いわゆる臨教審において、大学をはじめとする教育制度の改善にかんし、さまざまな提言がなされたのであるが、実効を期待できるものは少ないといってよいであろう。それもそのはず、教育の根本思想そのものが未確立のままなのである。そのことを端的に表しているのが、教育にたいしていわゆる「民活」を導入すべきかどうかということをめぐる議論である。

教育が官僚統制によって硬直化させられているのは事実である。したがって、教育を市場機構という名の民間活力の場に大幅に委ねようというのは、そのかぎりでは正当な主張である。しかしそこには、民間活力であるならば何はともあれ認めなければならぬという民主主義にたいする安直な肯定がある。民間活力の自由化、つまり教育の市場化が、受験競争をはじめとする偏頗な能力主義をいっそう助長するかもしれない。この危険を認識するためには民活そのものを疑ってかかる必要がある。

教育において官僚化と市場化のあいだの二者択一をするわけにはいかないということだ。教育はその社会批判をつうじて、官僚化された秩序を疑うと同時に、その人間批判をつうじて市場における民衆の欲望や行動をも疑うものでなければならない。いわば秩序と自由のあいだで平衡をとるための知恵を教えるのが教育の眼目であり、それがまさに徳育なのである。

より広くいって、徳とは人間存在の危機と社会制度の危険のなかでの認識的なそして行為的な平衡術のことにほかならない。こういうものとしての徳育は、制度をいじることによってどうにかなるものではない。徳育は国家から与えられないし、市場からも供されはしないのである。それどころか、教育の最終の目標である徳育は、顕在的なシステムとしては、不可能性を予告されているのだ。それは、たとえば、戦前の国家による道徳教育も戦後の日教組によるヒューマニズム教育も、欺瞞と偽善に堕したことからも窺えるところであろう。

徳育は教科書化されるかたちの教育ではありえない。なぜといって、それは問題解決の処方箋を教えるものではなく、問題発見のための生き方を知らせるものだからである。人間の個人的生活と社会的生活のどこに問題がはらまれていうるかを察知し、それにたいし先人たちがいかに対処してきたかを洞察する絶え間ない営み、それが徳である。そういう徳は、体育はむろんのこととして、知育によっても伝えられるものではない。それはむしろ教師と学生との全人格的な交際をつうじて潜在的かつ間接的に暗示されるにすぎないものである。

『海外ブラックロード』

嵐よういち『海外ブラックロード:危険度倍増版』(彩図社 2005)を読む。
年が明けてもほとんど勉強は進んでおらず、地誌の勉強の一環だと自分に言い聞かせて手に取ってみた。
米国のイミグレで捕まったり、中南米で騙された体験や、麻薬常習者や性倒錯などの人たちとの出会い、その他ムカついた経験などが綴られている。海外事情はほとんど書かれておらず、ただ不快感だけが残った。

関宿城〜渡良瀬遊水地〜道の駅さかい

ショップの方たちと関宿城に集合し、渡良瀬遊水地をぐるっと廻り、道の駅さかいまで走った。
風も全くなく、朝8時以降は日差しもたっぷりだったので、絶好のサイクリング日和となった。50キロほど走ったのか、最後は汗びっしょりであった。来週のブルベには物足りない距離であったが、色々と有益な情報を得ることができた。