『新・学問論』

西部邁『新・学問論』(講談社現代新書 1989)をパラパラと読む。
ちょうど先日亡くなったと報道で知り、本棚にあった本を手に取ってみた。
ちょうど人類学・宗教学者の中沢新一氏の東大駒場での着任を巡って、東大を退官した後に書かれたものなので、細分化されすぎた知のあり方や薄っぺらい虚学に終始する大学への強烈な批判が展開される。現代思想を駆使して書かれているので、小難しくてついていけなかったが、最後の大学の未来の章だけ読んだ。一部引用してみたい。素晴らしい内容である。
1990年代の「朝生」のイメージが未だに強いが、現在出演している三浦瑠麗と思想の根本で重なるところがあるのだろうか。

 

学生が真正の知識を学ぶのは、教授による一方的な授業を通じてであるとは考えられない。そうした知識に近づく第一の径路は、学生が古典とよばれる先人たちの営みに深く接することであろうが、しかしそれは、単なる見せびらかしの古典教養とは異なるものでなければならない。学生の生き方に密接にかかわるものとしてそれらの古典が解釈され、それが学生たちの精神の血肉と化すのでなければならない。しかし、多種類の授業からなるカリキュラムによって学生を選別することを主眼としているいまの大学に、そういう解釈作業を許す時間的余裕はないのである。また、教える教師のがわにしても、生き方に体化されるような解釈をほどこす準備をしているものは皆無に近いといえるだろう。というのも、そういう解釈のためには、古典との全人格的なかかわりが必要なのだが、現在の学者の人格は、現実社会との接触を欠いているために、おおむね歪曲を受けているからである。

すでに言及したように、真正の知識への歩みが進められるのは、授業よりもむしろ、教師を交えた討論の場のはずである。そうした討論の場は大学には存在しないに等しい。また、学生が真正の知識への糸口をみつけるためには、自分で論文を書き、それについて教師をはじめとする他者の批評に委ねるのが有効である。しかし、そういう論文作成、論文批評の場も大学にあって極限されている。これが大衆化された高等教育の偽らざる現状なのである。

かくして大学は高等教育を卒業したという看板だけが大事であるような、単なる儀式の場と化しつつある。その儀式が社会へ向けての人間の選別マシンそして配分マシンの役割を果たしている。それはそれなりに重要な機能ではあるのだが、しかし高等教育という形容からほど遠い教育であることは確かだ。したがって、イリイッチのような「脱大学」を奨励する思想家が現れるのも当然といえよう。

(中略)教授会自治について

いわゆる臨教審において、大学をはじめとする教育制度の改善にかんし、さまざまな提言がなされたのであるが、実効を期待できるものは少ないといってよいであろう。それもそのはず、教育の根本思想そのものが未確立のままなのである。そのことを端的に表しているのが、教育にたいしていわゆる「民活」を導入すべきかどうかということをめぐる議論である。

教育が官僚統制によって硬直化させられているのは事実である。したがって、教育を市場機構という名の民間活力の場に大幅に委ねようというのは、そのかぎりでは正当な主張である。しかしそこには、民間活力であるならば何はともあれ認めなければならぬという民主主義にたいする安直な肯定がある。民間活力の自由化、つまり教育の市場化が、受験競争をはじめとする偏頗な能力主義をいっそう助長するかもしれない。この危険を認識するためには民活そのものを疑ってかかる必要がある。

教育において官僚化と市場化のあいだの二者択一をするわけにはいかないということだ。教育はその社会批判をつうじて、官僚化された秩序を疑うと同時に、その人間批判をつうじて市場における民衆の欲望や行動をも疑うものでなければならない。いわば秩序と自由のあいだで平衡をとるための知恵を教えるのが教育の眼目であり、それがまさに徳育なのである。

より広くいって、徳とは人間存在の危機と社会制度の危険のなかでの認識的なそして行為的な平衡術のことにほかならない。こういうものとしての徳育は、制度をいじることによってどうにかなるものではない。徳育は国家から与えられないし、市場からも供されはしないのである。それどころか、教育の最終の目標である徳育は、顕在的なシステムとしては、不可能性を予告されているのだ。それは、たとえば、戦前の国家による道徳教育も戦後の日教組によるヒューマニズム教育も、欺瞞と偽善に堕したことからも窺えるところであろう。

徳育は教科書化されるかたちの教育ではありえない。なぜといって、それは問題解決の処方箋を教えるものではなく、問題発見のための生き方を知らせるものだからである。人間の個人的生活と社会的生活のどこに問題がはらまれていうるかを察知し、それにたいし先人たちがいかに対処してきたかを洞察する絶え間ない営み、それが徳である。そういう徳は、体育はむろんのこととして、知育によっても伝えられるものではない。それはむしろ教師と学生との全人格的な交際をつうじて潜在的かつ間接的に暗示されるにすぎないものである。