三田誠広『僕って何』(角川文庫 1988)を読む。1977年に単行本として出版され、芥川賞を受賞した作品である。
今度は団塊の世代の大学時代について知りたいと思い、十数年ぶりに読み返してみた。
十数年前、自分自身が学生時代に読んだ際は、小馬鹿にしながら読み捨てた作品であった。作者は、「連帯を求めて孤立を恐れず」をスローガンとした全共闘に馴染めない主人公を描き出すが、その主人公の抱える「弱さ」70年代以降の若者像を的確に言い当てている気がした。
主人公は大学の自治会のB派と活動を共にした際に次のように感じている。
自分がデモ隊の隊列の中にいる。それはつい半時間前には考えられもしなかったことだ。だが、いま僕はここにいて、このデモ隊列全体を包んだ昂奮と熱気の中にぴったりととけこんでいる。僕は涙がこぼれそうになる。(中略)こうして腕をしっかりと組み合わせ、おたがいの肌のぬくもりが感じられるほど身体と身体を寄せあいながら、汗にまみれ同じひとつのスローガンをくりかえし叫び続けていると、何かこのデモに参加している百人、あるいはそれ以上の人間たちのすべてが、現実の社会体制に対する否定的な認識、というよりももっとなまなましい憎悪に似た感情によって結ばれ、ひとつにとけあったような感じに打たれる。それにこの前後左右から伝わってくる肉体の圧力のここちよさ--。
しかし、B派と他党派の内ゲバがあってから、次のように考え方を改めている。
B派のデモに初めて加わったあの時、何か熱いものが自分の胸と身体ぜんたいをひたしていたような気がする。あの気持ちの昂ぶり、じっとしていられないほどわくわくとした、はちきれそうな意気ごみは、どこへ行ってしまったのだろう。あのシュプレヒコールとジグザグデモのスクラムの中で自分が感じていたもの、何か大きなひとつの流れのようなものにすっぽりと包みこまれて、自分というものがその流れの中にとけこんでしまったような、自分と自分のまわりの人間たちがぴったりと一つにとけあったような感じ、あの“感じ”をいつ自分は失ってしまったのだろう。
いま、こうして僕は、ただひとり、行くあてもなく街路をさまよい歩いている。ここに自分が存在しているということ自体が僕にとってやりきれない重荷だ。B派の中にも、全共闘の中にも、僕は自分の居場所を見つけだすことができなかった。この荷やっかいな“僕”というものを、いったいどこへ運んでいけばいいのだろう。
そして最後、闘争から逃げてきた主人公を母と彼女が迎える。そして母と彼女レイ子に挟まれて眠りにつく主人公は次のように感じる。
レイ子にとって、そして母親にとって、僕とは何なのだろう。二人は僕のことをどう思っているのだろう。女たちの目に映った自分の姿をいろいろに想像してみる。一人前の“男”として映っているのか、それとも頼りない“子供”として映っているのか-。けれども、どんなふうに自分の姿を思いうかべてみても、あの大学の正門前でひとりたたずんでいた自分の姿とは重ならない気がする。あの惨めさ、やりきれない虚脱感、自分のふがいなさに対する怒りといらだち、そして空腹感。あのぶざまな自分の姿をレイ子や母親が一目でも見たとしたら……。
僕は思う。レイ子も母親も、ほんとうの“僕”というものを知らないんだ。二人ともなんにも知らないで、“僕”の話をしながら、“僕”の帰りを待っていてくれた……。