五木寛之『人生の目的』(幻冬社 1999)を読む。
現在わたし自身が人生の岐路に立っている状態なので、藁をもすがるような思いも多少ありながら手に取ってみた。
彼の初期のエッセーである『風に吹かれて』などに収録されているような話もあり、目新しさはないが、気楽に読むことが出来た。積極的に前向きな目的に向って充実した日々を送ることだけが人生ではないと作者は述べる。そして、時には胸の奥から「あ〜あ」と深いため息をつくことで、ふっと自分を取り戻すような瞬間を持ちながら、時代に流されながら、時流に飲み込まれながら、自らに与えられた運命を全うするものであると結論づける。
人生に決められた目的はない、と私は思う。しかし、目的のない人生はさびしい。さびしいだけでなく、むなしい。むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、つづかない。人生の目的は「自分の人生の目的」をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。変な言いかただが、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってもいい。わたしはそう思う。そのためには、生きなければならない。生きつづけていてこそ、目的も明らかになるのである。「われあり ゆえにわれ求む」といのが私の立場だ。
そして、その目的は、私たちが生きているあいだには、なかなか見つからないものかもしれない。確実に見つかるのは目的ではなく「目標」である。だが目標は達成すれば終わる。そのあとには、自分は達成した、という満足感が残るだけだ。そして、その満足感も、時間とともに薄れてゆく。そしてやがては単なる記憶に変色してしまう。
しかし、目的は色あせることがない。失われることもない。そこがちがう。人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものなのだろう。それがいやだと思うなら、もうひとつ、「自分でつくる」という道もある。自分だけの人生も目的をつくりだす。それは、ひとつの物語をつくることだ。自分で物語をつくり、それを信じて生きることである。