寺山修司『家出のすすめ』(角川文庫 1972)をぱらぱら読む。
著者27歳の頃のエッセーのアンソロジーとなっており、ちょうどボクシングやギャンブルにはまっていた彼の一番脂が乗り切った頃の寺山らしい熱い思いが綴られている。「家出」を勧める寺山は、家族や大学、故郷といった因習を離れることで、真の自分を探し求めることを説く。
だいたい、人が十七歳をすぎて親許で精神・お金の両方のスネをかじっているのはシラミにも劣ることであって、農村で太い大根をつくろうとするにしても、都会へでて労働者になるにしても、「家出」を逃避じゃなくて、出発だとおもいこめるような力さえつけば、もう詠嘆することはないでしょう。わたしは、自分の存在を客観的に見つめ、「自分とは誰か」と知ることがまず、こころの家出であり、それによってはじめて、こうした口寄せを、現実と交わしあえるようになるのではないか、と考えるのです。
ともかく、わたしは自分を「それはわたしです」といい得る簡潔な単独の略号をおもいつきません。ましてや、先生が生徒に、「君はだれ? 何する人? って聞かれたら、すぐ大きな声で私は何々です、と答えられるような人間になりなさい」などと教えているのをみると、どうも不当なことを教えてるような気がしてならないのです。自分は自分自身の明日なのであり、自分の意識によってさえ決定づけられ得ない自発性なのです。
人は「在る」ものではなく「成る」ものだ、ということを書いた西村宏一のすぐれた詩をわたしは知っていますが……、わたしもまた、わたし自身への疑問符として自発性に生きてゆく、といったことを目指すべきなのではないでしょうか。
また生きて行く上の心構えとして次のように「怒る」ことを提案する。考えれば、わたし自身ストレスや不愉快な思い抱えることは多い。また仕事上怒ることもある。しかし、社会に対して、政治に対して、そして自分に対して「怒る」ということは減ってしまった。歳のせいであろうか。もっともっと「怒る」べきだ!!!!!
一日一回、怒りましょう。
もし怒るような腹立たしいことがあなたの身のまわりに何もないというなら、無理してさがしださなければいけない。よく気をつけて見ると、かならず「怒るべき」ことがあなたの周囲に何かあるはずです。それを見つけだして、怒鳴りつける。怒りは自動車のガソリンのようなものです。怒りは要するに明日への活力です。
内部に鬱屈したエネルギーを大切にしておいて、革命のときの武器にする……というならいざ知らず、不衛生な我慢のために、かえって「家」全体が暗くなるのは変な話です。社会に、人類に、家に、町に、自分自身に……あなたはもっと怒らなければなりません。(これを読み終わったらバリバリとひき裂いて「馬鹿なことをいいやがる!」というのでもよいのです。そのエネルギーがあなたの明日へ生きてゆくモラルのガソリンとなるのでしょう)