林信吾『吾輩は【黒帯】である:日本人拳士ロンドン道場痛快修業記』(小学館 2000)を読む。
『月刊少林寺拳法』の1996年1月号から1999年の10月号まで連載されたエッセーに加筆訂正を加えたものである。少林寺を日本でわずか1年半ほどしかやっていない著者がイギリスに留学した折、ふと立ち寄った少林寺拳法のロンドンの道場でのカルチャーショックがうまくまとめられている。イギリスと日本という文化の違い、そして精神修養を売りとする少林寺拳法と、派手な技を好み合理的なとらえ方をするイギリスの二つの文化の摩擦、そして日本ではまだまだ練習中の身であるにも関わらず「ブラックベルト」を締めているということで指導者の側に回らざるを得なかった著書の内面的なすれ違いなどが軽妙に語られる。そして少林寺拳法を含めた武道のありようについて以下のようにまとめる。
たまたま少林寺拳法という趣味を持ち合わせていたことから、ヨーロッパ各国の道場を訪ね歩く経験をしたわけだが、そこで学んだことを一口で言うなら、精神を失った武道は存在価値がない、ということだった。
国際化とか、世界に通用する日本人になろうとか、よく言われていたけれども、自分たちの精神文化をないがしろにしているような国民が、世界で認められるはずはない。
反対に、この頃はどういうものか、日本人であることに誇りを持て、だとか、国のためにどうだとか言う人が増えてきているようだが、見当違いなことを吠えるのはやめてもらいたい、と思う。僕は日本人であることに誇りを持っているし、サッカーの試合などで日本が勝てば大感激するが、だからと言って、単に日本人であるという理由だけでもって、外国人と比べてなにか優れているなどとは、考えたこともない。
異なる文化と歴史を背負って生きてきた外国の人達に対して、精神的になにかを与えることのできる日本人になってはじめて、日本人であることに誇りが持てるのであって、その逆ではないだろう。
人、人、人。すべては人の質にある。
少林寺拳法の開祖宗道臣の言葉である。子どもに何を教えるか、ではなく、いわんや、どんな教科書を与えるか、などということでもなく、次の世代を背負う子どもは、どんな人間にならなければいけないのか。真剣に考え直す時期が、今、来ていると思う。