本日は小山市の花火大会に出掛けた。
打ち上げ場所から数十メートルしか離れていないところで見ていたので、花火の爆発時の音圧を感じることが出来た。また燃え滓がちょうど私のGパンの上に降って来て大騒ぎであった(笑) 白鴎大学のすぐ脇で見ていたのだが、壁に音が反射して爆弾のような轟音が響き、遠くで見るのとはまた違った迫力があった。
多数の若者がビール片手に歓楽する、夏の風物詩として定番のイベントであるが、花火というものはわずか5秒あまりの一瞬の芸術であり、失敗は許されない「職人」の世界である。世の中に「職人」と称される者は多数いるが、花火職人ほどその作品の全てが瞬時に数万の観客の目にあからさまにされる者はいないであろう。
月別アーカイブ: 2003年7月
『「超」整理法3』
野口悠紀雄『「超」整理法3:とりあえず捨てる技術』(中公新書 1999)を読む。
『「超」整理法』と発想は同じで時間軸でフローな情報とストックな情報を峻別し、フローな情報はフローとして管理していこうとするものだ。その中で特に著者の次の言葉が耳に痛かった。「整理」という発想自体突き詰めていけば危険な発想に繋がるものだが、最低限の書類管理は各自の自覚に求められるものであろう。
「きれいな机」がもたらす精神衛生上の効果は、驚くべきものだ。邪魔ものが何も置いていない空間は、健全な発想を自由に展開するために、必要不可欠である。書斎や研究室は散らかっていてもよいのだが、机の上はきれいに維持することが必要だ。
『読書術』
ハイブロー武蔵『読書術』(総合法令出版 1999)を読む。
偏見に満ちた読書指南書であり、読む価値はない。
『土壇場の人間学』
青木雄二・宮崎学『土壇場の人間学』(幻冬社文庫 1999)を読む。
言わずと知れた両者であるが、どちらも積極的に評価は出来ない。宮崎氏には自身の経験に根ざした鬱屈した左翼観が残っており、門外漢には意味不明な共産党に対する批判意識が強い。結局彼がどのような社会像を想定しているのか読者には素直に伝わらない。その点では青木雄二氏の方が言説は分かりやすい。彼は物事のそもそもの捉え方として「唯物論」を強調する。「唯物論」について「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する」とおそらくは『ドイツイデオロギー』から正しく引用しているのだが、共産主義になれば全てが救われ、日本も唯物史観に従って共産主義にならざるを得ないと、マルクスやエンゲルスを神のような存在に祭りあげているのが気になった。読売グループや自由民主党をこの世を破壊する悪魔と位置づけた、「マルクス教」や「エンゲルス教」の信者といった趣だ。
そもそも日本では70年代以降、中流意識のまん延により、学生もサラリーマンも公務員も主婦も、「社会的存在が意識を規定する」といっても自らの「社会的存在」そのものが見えてこない。「お前は誰なんだ?」と問われた時に「賃金労働者」なり「労働者予備軍」と答える者が何人いるだろうか。上段な共産主義をふりかざすよりも、身近な自己分析から始めたい。
『Zカー』
片山豊・財部誠一『Zカー』(光文社新書 2001)を読む。
昨年日産からスポーツカー「フェアレディZ」が発売されたが、その従来の日本車から一線を画したようなデザインは今でも色褪せていない。この本では、米国からのファンからは「father of Zcar」と称されるZ販売の開拓者である片山豊を通して、Z復活の経緯とゴーンによって変わった日産の会社のありようが語られている。我々の世代からすれば日産のフラグシップはフェアレディZではなくGTRという思いが強い。しかしGTRはあくまでハコスカであり、元来は4ドアの乗用車である。しかしフェアレディZはコンセプトからポルシェを意識したスポーツカーである。1970年に240Zとして米国で販売されたフェアレディZは瞬く間にフォルクスワーゲンを抜く輸入車第一位の座を獲得した。しかし80年代の日産の売れれば良いという方針のもと、ダットサンブランドは潰され、Zカーもポルシェを猿真似したデザインに変わってしまった。1998年に入っていすゞからデザイナー中村史郎がヘッドハンティングされ、99年にはルノーからカルロスゴーンがやってきて、日産は外部からの血によって変わって来た。両者ともクルマに対するこだわりは人並以上のものを持っている。やはりものづくりの会社はその製品を愛することから始まる。「一念岩をも徹す」というが、技術者たるもの好きなものにこだわる続ける姿勢が大切だとまとめる。