本日の東京新聞朝刊に、日本文学研究者ドナルド・キーンのコラムの中で、今上天皇との思い出が綴られていた。キーン氏は1953年以来の付き合いである両陛下について次のように語る。
(疎開で移動を繰り返し、焼け野原になった東京の惨状に心を痛めた)体験があるからだろう。陛下は、戦後の平和憲法に忠実であろうとしている。職業選択の自由や選挙権も持たず、政治的発言を許されない象徴天皇には、行動だけが意思表示の術なのかもしれない。戦争を反省し、恒久平和を希求して、国内外の数々の激戦地を回った。(中略)過激派から火炎瓶を投げ付けられても、沖縄で20万人が犠牲となったことに「一時の行為によってあがなえるものではなく…」と談話を出した。
そして、雲仙普賢岳や阪神大震災、東日本大震災の避難所で、ひざまづき被災者と同じ目線で語り続けた陛下について次のように語る。
昭和までと比べて、今上天皇は革命的といっていいほど違う。戦没者や被災者への思いを率直に語られ、小学校では子どもに話し掛けられたりする。それも、易しい現代の日本語で誰にでも分かりやすく話す。
私は九条で平和主義をうたう日本国憲法は、世界で最も進んでいる憲法だと思う。憲法に変わりうる点はあるだろうが、九条を変えることに私は強く反対する。その九条を両陛下は体現されているかのようだ。
憲法には男女同権も明記されている。過去には存在した女性天皇や女系天皇を認めないのは、どういうことなのか。表現の自由を持たない両陛下の憲法への思いにこそ、私たちの忖度が必要ではないかと思う。
中野重治の『五勺の酒』と同様の問題が提示されている。現憲法で基本的人権を奪われた形になっている天皇個人に対しては、国民全体が「保護者」となり、天皇の気持ちを汲み取る必要があるのではないか。