月別アーカイブ: 2013年12月

『宇宙兄弟』

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秋口より、職場の近くの焼きそば屋に何回か通い、小山宙哉『宇宙兄弟』(講談社)を1巻から10巻まで読んだ。
継続性のない自分にとって2ヶ月くらいかけて10巻まで読むというのは珍しい。それだけ作品に40歳のおやじを引きつけるだけの魅力があるのだ。日本で初の月面着陸を果たした宇宙パイロット難波日々人を弟にもつ南波六太が、厳しい選考試験を経て同じ宇宙パイロットを目指す物語である。10巻までで兄六太はNASAでの訓練の真っ最中で、弟日々人は月で命からがらのプロジェクトに従事している。
決して若くもなくエリートでもない六太が宇宙を目指すというシンデレラストーリーなのだが、心理描写や回想シーンが巧みに用いられ、読めば読むほどキャラクターへの思いが募ってくる。
大盛り焼きそばを食べ続け、何とか22巻まで読破してみたい。

『ゼロ・グラビティ』

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昼にイオンシネマの3ヶ月間パスポートを買ったので、本日またいそいそと夜一人で映画館に出かけた。
アルフォンソ・キュアロン脚本・監督、サンドラ・ブロック主演『『ゼロ・グラビティ(原題: Gravity)』(2013 米)を観た。
『アバター』以来の3D映画鑑賞となった。奥行きのある映像で、宇宙空間の無重力状態がばっちりと表現されていたのは素晴らしい。物が浮くシーンや地球の映像などは文句のつけようがない。
しかし、話の展開はありがちなハリウッドテイストで、ロシアが勝手に人工衛星を爆発させ、その破片でシャトルが粉々になったり、時速数万キロの破片が飛び交う中で作業したり、炎に追いかけられたりのドタバタ劇である。話が急展開すればするほど、宇宙における闇や無音の恐怖、真空の危険さといった肝心なモチーフが薄くなってしまい、『アルマゲドン』などの「普通」のアクション映画に成り下がっていってしまった。もう少ししんみりと無重力自体の面白さや魅力を伝える映画であれば良かったと思う。
原題は「Gravity」(重力)というタイトルである。ラストシーンは重力の力で命を落としかけながらも、二本足で立ち上がる場面でエンディングを迎える。あの場面でのサンドラ・ブロックの姿は格好良かった。

『ウォーキングwithダイナソー』

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子ども3人を連れて、春日部イオンで、ニール・ナイチンゲール、バリー・クック監督『ウォーキングwithダイナソー(原題: Walking with Dinosaurs)』(2013 英米豪)を観た。
『アース』で有名なイギリスBBCが制作した作品であり、一匹のパキリノサウルスが子どもから大人に至るまでのドラマを通じて、恐竜の実態や生活環境を忠実にCGで描き出されている。途中下の子が泣き出し慌てて抱きかかえて外に行ったので、最後の10分ほどは見逃してしまったが、子ども向けでありながら真面目な作りの映画であった。ちょうど昨日化石で見た恐竜も出てきて子どもたちも満足したようだ。恐竜漬けの2日間であった。

『リアルのゆくえ:おたく/オタクはどう生きるか』

大塚英志・東浩紀『リアルのゆくえ:おたく/オタクはどう生きるか』(講談社現代新書 2008)を読む。
1990年代論が気になったので、90年代に学生時代を送った世代を代表するであろう東浩紀氏の著作を手に取ってみた。段階の次の世代にあたる1958年生まれの大塚英志神戸芸術工科大学教授と、団塊ジュニア世代にあたる1971生まれの東浩紀元早稲田大学教授の対談集である。2001年、2002年、2007年、2008年の4回にわたる対談で、大塚氏と東氏の考え方の違い、引いては世代の違いが浮き彫りになっていく。大塚氏は、団塊の世代が国家と対立したような分かりやすい時代ではないという認識に立ちつつも、「公共」に対する責任や、他者に対する関わりの積極的な意義を滔々と論じる。一方で、ポストモダニストの東氏はインターネットの発達により、全てがサブカル化し相対化された現在、批評家として言説に責任を持つことは難しく、「ぬるぬる消費者をやって、小さくハッピーに生きるべき」であるというスタンスをとる。特に2007年の対談では、社会を良くしていくことに希望を見いだす大塚氏の、東氏に対するけんか腰の物言いがそのままに載録されている。

私自身は東氏と同じ世代に属するのだが、大塚氏の考え方の方に頷くところが多かった。
また、東氏の権力とマーケティングの分析の話の中で、セキュリティーやマーケティングといった横文字の裏側で進む、情報統制や国民の動向管理といった話は興味深かった。一部引用してみたい。

近代というのはひとことで言えば、最終的な立法者、「大文字の主体」を想定して、その主体と最終的に向き合うことを目的として成長していく、という人間モデルを採用した時代なわけです。それに対してポストモダンというのは、もっと単純に、ただ規則だけが自動生成していくような世界を想定している。

(中略)また別の例を挙げますが、通信傍受法のときに朝日新聞の特集記事だと「権力は聞いている」という言い方をするわけです。これはつまり、「権力」という言葉でイメージされる官僚や政治家、警察が電話線の向こう側にいて、私たちのプライバシーを聞いているという発想です。
でも、デジタル技術の恐ろしいところは、特定の個人を監視する点にではなく、莫大な情報をデータベースとして管理できることにある。そしてそういうタイプの匿名的な監視は、とうにTSUTAYAとかでやられている。

(中略)これは果たして「権力」なのか。あるレベルで見ると、ぼくの行動はすべて統計的に動かされている。でも別のレベルで見ると、ぼくはぼくで自分の意思で行動している。この両者は矛盾しないのであって、ポストモダンの権力というのは、政府ベースと民間ベースとを問わず、その隙間で動いてしまうんですよね。

(中略)権力とマーケティングの境界はますます曖昧になりつつある。マーケティング理論が匿名的で集団的な行動を記述する言語だったのに対して、法は個人に対して命令するものだった。しかし、同じ結果を達成するのであれば、マーケティング的に社会を動かしたほうがはるかに効率がよいし反発も買わない。そうした大きな流れがあって、その一つの流れが物語(イデオロギー)消費からデータベース消費への移行ですね。そして情報技術の進化がそれを後押ししている。

『原発労働』

日本弁護士連合会『原発労働』(岩波ブックレット 2011)を読む。
日弁連会長の宇都宮健児氏や日弁連貧困問題対策本部が中心となって、原発労働者の証言を踏まえて原発労働の問題点がまとめられている。
原発労働の現場では、被爆の問題に加え、下請け・孫請けによる給料のピンハネや、偽装請負などの間接雇用により雇用保険や社会保険がおざなりにされている問題が浮かび上がっている。個別原発労働特有の問題として片付けるのではなく、人間らしく働くという意味と意義が問われている。