大塚英志・東浩紀『リアルのゆくえ:おたく/オタクはどう生きるか』(講談社現代新書 2008)を読む。
1990年代論が気になったので、90年代に学生時代を送った世代を代表するであろう東浩紀氏の著作を手に取ってみた。段階の次の世代にあたる1958年生まれの大塚英志神戸芸術工科大学教授と、団塊ジュニア世代にあたる1971生まれの東浩紀元早稲田大学教授の対談集である。2001年、2002年、2007年、2008年の4回にわたる対談で、大塚氏と東氏の考え方の違い、引いては世代の違いが浮き彫りになっていく。大塚氏は、団塊の世代が国家と対立したような分かりやすい時代ではないという認識に立ちつつも、「公共」に対する責任や、他者に対する関わりの積極的な意義を滔々と論じる。一方で、ポストモダニストの東氏はインターネットの発達により、全てがサブカル化し相対化された現在、批評家として言説に責任を持つことは難しく、「ぬるぬる消費者をやって、小さくハッピーに生きるべき」であるというスタンスをとる。特に2007年の対談では、社会を良くしていくことに希望を見いだす大塚氏の、東氏に対するけんか腰の物言いがそのままに載録されている。
私自身は東氏と同じ世代に属するのだが、大塚氏の考え方の方に頷くところが多かった。
また、東氏の権力とマーケティングの分析の話の中で、セキュリティーやマーケティングといった横文字の裏側で進む、情報統制や国民の動向管理といった話は興味深かった。一部引用してみたい。
近代というのはひとことで言えば、最終的な立法者、「大文字の主体」を想定して、その主体と最終的に向き合うことを目的として成長していく、という人間モデルを採用した時代なわけです。それに対してポストモダンというのは、もっと単純に、ただ規則だけが自動生成していくような世界を想定している。
(中略)また別の例を挙げますが、通信傍受法のときに朝日新聞の特集記事だと「権力は聞いている」という言い方をするわけです。これはつまり、「権力」という言葉でイメージされる官僚や政治家、警察が電話線の向こう側にいて、私たちのプライバシーを聞いているという発想です。
でも、デジタル技術の恐ろしいところは、特定の個人を監視する点にではなく、莫大な情報をデータベースとして管理できることにある。そしてそういうタイプの匿名的な監視は、とうにTSUTAYAとかでやられている。(中略)これは果たして「権力」なのか。あるレベルで見ると、ぼくの行動はすべて統計的に動かされている。でも別のレベルで見ると、ぼくはぼくで自分の意思で行動している。この両者は矛盾しないのであって、ポストモダンの権力というのは、政府ベースと民間ベースとを問わず、その隙間で動いてしまうんですよね。
(中略)権力とマーケティングの境界はますます曖昧になりつつある。マーケティング理論が匿名的で集団的な行動を記述する言語だったのに対して、法は個人に対して命令するものだった。しかし、同じ結果を達成するのであれば、マーケティング的に社会を動かしたほうがはるかに効率がよいし反発も買わない。そうした大きな流れがあって、その一つの流れが物語(イデオロギー)消費からデータベース消費への移行ですね。そして情報技術の進化がそれを後押ししている。