日別アーカイブ: 2013年12月8日

大学案内研究:日本大学

2014

日本大学の大学総合パンフレット(2014年度版)を読む。
日本大学の全14学部84学科・22研究科・短期大学部6学科・通信教育部の全てを網羅したパンフレットとなっている。およそ受験生が手に取るパンフレットというよりは、日本大学の全体像を紹介する理事会の事業案内のような体裁である。このパンフレットをじっくり読む人は、よほどの日大マニアであろう。
獣医から哲学、日本舞踊、海洋生物、航空宇宙までおよそ思いつく限りの全ての学部学科が揃っていると言っても過言ではない。また、「数字で見る『日本大学のここがNo.1』」というページには、学生数68,675名、女子学生数20,197名、大学図書館蔵書数5,732,594冊、インターンシップ参加学生数2,347名、就職支援部門の職員数76名、校舎面積995,812㎡、卒業生総数1,079,563名、出身大学別社長数23,402名など、これでもかと赤ゴシック文字でデカデカと宣伝されている。

1989年に創立された日本法律学校を前身とし、1901年高等師範科(現・文理学部)、1904年に商科(現・経済学部並びに商学部)、1920年に高等工学校(現・理工学部)、1921年に美学科(現・芸術学部)、東洋歯科医学専門学校(現・歯学部)を合併、1925年に専門部医学科(現・医学部)、1943年に農学部(現・生物資源科学部)が設置され、戦前の段階でほぼ現在の学部の陣容が揃っている。戦後になってから、1947年に専門部工科(現・工学部)を福島県郡山市に移転、1948年に通信教育部、1950年に短期大学部、1952年に薬学部と工業経営学科(現・生産工学部)、1971年に松戸歯科大学(現・松戸歯学部)、そして1978年に国際関係学部を静岡県三島市に開設している。
数多くの学部学科があるが、都心部の学部は戦前から伝統あるものであり、戦後千葉や静岡に学部を多数開設しているが、それも1978年を最後に新しい学部は設置されていない。
この点が80年代後半のバブル期を中心にいたずらに学部学科を濫造してきた他大との違いであろう。25校もの付属中学高校を経営する理事会である。偏差値50ちょいの中堅校という位置を変わらずに維持し続け、難関校受験者の滑り止めとして、勉強が進まない受験生の志望校として、しっかりと受験生を集めている。日東駒専と受験界では一括りにされるが、その4校の中でトップに居続けるのは並大抵の経営努力ではないであろう。

改めて、学校法人「日本大学」のデカさを知ることとなった。

大学案内研究:関東学院大学

関東学院大学のパンフレット(2014年度版)を読む。
パンフレットによると、1884年アメリカ北部パブテスト神学校の宣教師によって設立された横浜パブテスト神学校を源流とする。その後1895年に、キリスト教の伝道に必要な学力と教養を身につけることを目的とした東京中学院、1919年に中学関東学院がと名称を変え、1949年に新制大学に移行している。1928年には東京帝大に次いで2番目の社会福祉活動「セツルメント」が始まっている。現在でもこうしたキリスト教精神に基づく奉仕を校訓に据えている。
戦後、経済学と工学部の2学部で始まり、1959年神学部、1968年文学部、1991年法学部、2002年人間環境学部、2013年工学部を改組して、理工学部と建築・環境学部が置かれ、さらに看護学部が開設されている。ただし神学部はwikipediaによると学生紛争の影響で廃止されたとのこと。現在は横浜市金沢区六浦キャンパスを中心に、7学部12学科11コースからなる総合大学となっている。このうち法学部のみ小田原から徒歩20分弱の場所にキャンパスが置かれ、サークル活動もグランドもなく本部から隔離されたような形になっている。事実志願者も定員割れが起きている。一方、実学志向の流れで、管理栄養士を目指す健康栄養学科や、幼稚園教諭・保育士を目指す人間発達学科、建築環境学科、看護学科は4倍を越える志願者を集めている。

理工学部などは各コース1ページだけの簡単な紹介しかないが、学部それぞれのパンフレットが別に用意されている。サークルや部活動も同様に別に案内が用意されており、宣伝には力を入れている。

大学のホームページを見ると、小田原市と2017年度4月より法学部を本部の金沢八景キャンパスに移転する協議を始めたようである。東京理科大学や立正大学など、最近郊外に設けられたキャンパスを都心に合併させる大学が増えている。大学としては賢明な判断であろうが、地元の自治体からすれば開設に当たって便宜を図ったのに、大学が移転してしまっては、無駄な敷地と建物だけが残され、その管理維持のための余計な予算措置が強いられる。大学側は小田原市との関係の継続を謳うが、学園全体が横浜市金沢区と横須賀に集中しているので、口先だけの約束で終わるであろう。

大学のホームページより

【キャンパス変更の理由】
法学部の修学キャンパスを金沢八景キャンパスへ変更するのは、外部環境(大学間の競争の激化、都内大学のキャンパスの集約化の進行、少子化による志願者の減少)に対応しつつ、総合大学のメリットを活かした教育の展開、きめ細やかな学生支援の充実、施設設備の有効活用を行うためのものです。この2年間、残念ながら法学部は定員を確保することができなかったこともあり、今後の法学部の教育を強化するためには本学の人的・物的資源の有効活用が不可欠であり、本学のメインキャンパスである金沢八景キャンパスに修学場所を変更せざるを得ないと判断したしだいです。
【今後の小田原キャンパスについて】
上記のことからご理解いただけるように、法学部の修学キャンパス変更は関東学院大学のさらなる発展に不可避のことと考えています。しかし、このことは関東学院が小田原の地から立ち去ることをただちに意味するものではありません。
1991年に小田原キャンパスを開設して以来、関東学院は22年にわたって小田原市との公私協力体制を維持して参りました。小田原キャンパスで働いてきた教員・職員の多くは、小田原に大きな愛着を抱いています。また、法学部の教員は小田原市を含む近隣の市町村の各種委員として、また公開講座などの講師として地域貢献をさせていただきました。このような互恵主義の精神は今後も変わることはありません。小田原キャンパスの今後の利用については小田原市と誠意をもって協議を進めていきます。

『夢を釣る』

大庭みな子『夢を釣る』(講談社 1983)を読む。
1975年から1982年の8年間の間に文学雑誌や文学全集に寄せたエッセーがまとめられている。
1982年6月の『群像』に掲載された「呼び出すほら穴」という文章の一節が印象に残ったので引用してみたい。

(夫の仕事の都合で30代の10年間を言葉の通じないアラスカで過ごした経験に触れて)
その十年間は、私の人間に対する柔軟性と、孤独に耐える力を養ってくれてような気がする。途方もない想像力を孤独にひろげて深める持続力を幾分か得た。外国だったし、余りにも異質なものに囲まれていたから、想像力がなければ、生存が不可能だということもあった。また、その想像力が間違っている場合、ひどい困難に陥ることで、自分の誤りを認めざるを得ないということもあった。
比較的同質なものに囲まれていると、日常生活で、想像力がなくてもあまり困らないので、想像力が貧しくなる。そして、そういう癖がついてしまうと、異質なものに入っていくのがだんだん億劫になってしまう。

「想像力が貧しくなると異質なものに入っていくのが億劫になる」という言葉が正鵠を得ていると思う。想像力を逞しくしておかないと、人間は他人の意見や「常識」なるものに流され、自分の近眼な目に見えるものだけで物事を捉えてしまうようになる。そうすると、目に見えない他人のことが分からなくなり、そして無関心になる。さらには、自分の本質や本音すら分からなくなってしまう。
現在の自分が

1975年9月の潮刊『人間の世紀第5巻・政治と人間』に所収された「異質なもの、文学と政治」の中で大庭さんは次のように述べる。

私にとって文学とは、あるひとつの人格内部にかかわるものであり、結果的に他の人間とのつながりを引き起こすものであるにしても、現在の状況における社会的人間たちをある妥協のもとに、どうにかとりまとめるといった仕事とは本質的に異質の、人間内部の一種の「夢」である。
(中略)
「文学」とは言語をもって人間の願望と夢を語る虚構の世界であり、けっして社会科学的な考察ではない。もちろん、ある作品の中で社会科学的考察や、政治的見解や、哲学的論理の究明が述べられていることはあるかもしれないが、それはあくまでその文学の本質的な部分ではない。文学とは「世界」の中で戸惑う人間の内面の一種不可思議な感動を、言語によって表現する芸術であり、その根底にあるものは音楽や絵画や舞踊、演劇などを生み出すと同じ、ほとんど原始的な、官能的詩神なのである。

文学は合理的なものを好まない。というよりは合理的なものを信用しない。不確定性原理とか、確率とは偶然とかいったものにみちみちている人生に対する絶望と、懐疑から生まれた人間の嘆きといったものが文学である。無数の個を全体として取り扱う平均値、などということは文学にとっては興味のないことなのだ。文学とは社会という性能のよい機会を組み立てる、規格に合った部分品にはけっしてなれない人間の心である。そして、それ故にこそ文学は全ての人間にとって思いあたるふしのある嘆きでもあるのだ。

大庭さんは、「政治と文学

『南極料理人』

地上波で放映された、沖田修一脚本監督、堺雅人主演『南極料理人』(2009 東京テアトル)を観た。
タイトルの通り、南極でおよそ1年近く暮らす隊員たちの生活を描く。長回しの食事風景や麻雀の場面があったり、ドタバタ劇があったりと観客も一緒に観測基地に入り込んだような感覚に包まれる。本編は125分もあるのだが、地上波枠では90分ほどしか放映されなかった。ノーカットで楽しみたい映画であった。