月別アーカイブ: 2007年12月

「福祉ネットワーク:この人と福祉を語ろう〜生活困窮者を支援するNPO事務局長・湯浅誠〜見えない『貧困』に立ち向かう」

NHK教育テレビ「福祉ネットワーク:この人と福祉を語ろう〜生活困窮者を支援するNPO事務局長・湯浅誠〜見えない『貧困』に立ち向かう」という番組を見た。
NPO法人「自立生活支援センターもやい」の代表を務める湯浅氏が、貧困の実態と解決に向けた社会保障制度のありようを大変分かりやすく語ってくれた。我々はつい貧乏な人間を見て「怠けている」とか「仕事はいくらでもあるじゃないか」と一方的な見解を持つが、湯浅氏は金がなくても人的なつながりがあったり、夢を追ったりできる「貧乏」と、社会から見捨てられたと自己を全否定してしまう状況に追い込まれる「貧困」は質が異なると述べる。
10年前に野宿者運動をやっていた頃は東大出身ということで少し近寄り難い雰囲気があったと記憶しているが、画面を見る限りでは、相談をしやすそうな親しみやすさと信頼感が滲み出るような話し方をされていた。
興味ある方は下記のページをご覧下さい。

〈関連リンク〉

  • 非特定営利法人 自立生活支援センター もやい
  • 渋谷・野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合(のじれん)

『資産を増やす! 為替のルール:正しく、かしこく、儲けよう!』

島崎正成『資産を増やす! 為替のルール:正しく、かしこく、儲けよう!』(総合法令 2004)を読む。
十数年に渡る為替取引の経験を生かし、電話でアドバイスと売買注文を中心とした「アルファエフエックス」という外国為替証拠金取引会社を経営していた著者が、悪徳業者の見分け方やインターネット取引の危険性を説く。
これまた著者独自のテクニカル分析の妙味を期待して読んだのだが、移動平均線の簡単な説明しかなく、他は、やれ儲かった話や、悪徳業者に果敢立ち向かう自身の経歴が華々しく紹介されるだけの中身の薄〜い本である。
先程、「経営していた」と書いたが、この著者の設立した「アルファ〜」は先月の5日に無届けで営業を停止し、役員も連絡がつかない状態であるそうだ。著者自身が自著で紹介しているままの悪徳業者になってしまったという笑えない落ちまでついている。

『ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記』

071130_national2_new_main

今夕、家族でクリスマスケーキを食べて、子どもをお風呂に入れた後、一人でララガーデン春日部へニコラス・ケイジ主演『ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記』(2007 米)を観に行った。
前作同様にぶっ飛んだストーリーとハチャメチャな展開なのだが、宝探しという子どもの頃の夢がモチーフとなっているので素直に楽しむことが出来た。いくつになっても宝探しというのは胸躍るものである。
映画を観ながら、自分もいつか中国の古代文明の文献か遺跡に残された文字を解読して、宝探しの旅に出たいという子どものような想像をしてほくそ笑んでいた。ちょうどシュリーマンの『古代への情熱』に描かれた生涯のように、若いうちにお金を稼いで、現在は残っていない中国の民族文字を研究する。多忙な日常生活の中でも、そのような憧れ(野望?)は胸の内に秘めておきたい。

映画『ナショナルトレジャー/リンカーン暗殺者の日記』公式サイト

『イチからわかる外国為替オンライン取引』

佐藤利光『イチからわかる外国為替オンライン取引』(日本法令 2004)を読む。
日本信託銀行(三菱信託銀行)で外国為替業務に20年間、資金運用業務に10年間従事した著者が、「為替市場の健全なる発展に向けて」著した本である。外国為替取引の歴史や、為替取引の求められるルール、顧客に信頼されるサービスなど、為替取引に関心のある個人が読むというよりも、外国為替保証金取引仲介業者の新人教育などで用いられるような参考書的内容となっている。テクニカルチャートの分析などを期待していたので、ほとんどを読み飛ばしてしまった。

『新風 第五号』

職場で配られた桐原書店発行の国語の参考書や問題集の販促用の小冊子『新風 第五号』(2007.11)を読んだ。
その中で、埼玉県立浦和第一女子高等学校の滝本正史先生のエッセーが興味を引いた。その一部を引用してみたい。

(頭髪服装指導で違反を繰り返し、態度が良くないということで生徒指導部教員から大声で強く叱責されたNさんの件で)
午後の授業で教室に行くと、彼女は早退してしまっていた。担任である私が知らないのだから無断早退なのだが、私は怒る気持ちはなかった。頭髪指導で叱責されている間、彼女はタメ息をつき黙ってそれを聞いていた。それが生徒指導の教員にしてみれば反省の色のない不真面目なものに感ぜられるのだろうが、Nにしてみれば、自分は最初から目をつけられているので何を言っても駄目と言われるという気分だったのだろう。
その日の夕方、私はNの家に電話した。丁度、仕事から帰ったばかりの母親が出たのだが、最初、冷静に対応していた母親は、途中、「あんまりじゃありませんか、確かに髪の毛をいじった娘が悪いですけど、頭髪、頭髪って、異常じゃありませんか」と、私に訴えてきた。
私はNの姉を担任したことがあり、この母親と何度か会ったことがある。私は同世代の子を持つ親として、この母親の言うことが痛いほどよくわかる。母と娘とが夜、協力して髪の毛を黒くし、「明日、先生、『合格』と言ってくれるかしら?」と話している様子など想像するだに胸が痛むし、頭髪服装指導というのは、勉学の環境作りのために行うべきものであり、それを忘れて検査のための検査というように自己目的化してはいけない。それは丸山真男が「『である』ことと『する』こと」の中で「物神化」として戒めていることである。

(中略)えてして教員は生徒の小さな欠点やウソ−臆病さや不完全さ、心のキズから生じ、それを何とか守ろうとする「包帯のような嘘」−を暴きたて、「指導」したがる。だがそれは教育の本質とは無縁である。むしろ、敢て見て見ぬふりをし、敢て立ち入らぬ方が大事なこともある。学校にはその学校全体の重心があり、それを見据えて教育活動を行なうのが大切である。勧善懲悪の真似事をしようとすると校則を過度に厳しくしがちであり、学校全体の重心が歪み、「水清ければ魚棲まず」のような窒息状態となってしまう。

エッセーの中で滝本氏が述べるように「検査のための検査」や「指導のための指導」というのは、白黒はっきりするまでどこまでも突き進んでしまうものであり、最後は指導する側も指導される側も困憊してしまう。ちょうど病気の検査のようなものである。人間誰しも多少の病因は持っているものであり、その病因が表面化しないように健康に配慮するのである。しかし、検査によって病因を明らかにし、その根絶に努めて治療や投薬を繰り返すと、かえって心身の健康を損ねてしまう。勿論放っておいて悪化させてしまっては元も子もない。あくまで心身の健康という大目標に向かって、滝本氏も指摘するように、病因を表面化させないような「敢て見て見ぬふり」が時には大事なのである。それは生徒を「見ない」ことではない。「見て」そして「見ぬふり」という無言のコミュニケーションが表面化を防ぐのである。いささか理想主義的な教育論議であるが、心の中に留めておきたい。