職場で配られた桐原書店発行の国語の参考書や問題集の販促用の小冊子『新風 第五号』(2007.11)を読んだ。
その中で、埼玉県立浦和第一女子高等学校の滝本正史先生のエッセーが興味を引いた。その一部を引用してみたい。
(頭髪服装指導で違反を繰り返し、態度が良くないということで生徒指導部教員から大声で強く叱責されたNさんの件で)
午後の授業で教室に行くと、彼女は早退してしまっていた。担任である私が知らないのだから無断早退なのだが、私は怒る気持ちはなかった。頭髪指導で叱責されている間、彼女はタメ息をつき黙ってそれを聞いていた。それが生徒指導の教員にしてみれば反省の色のない不真面目なものに感ぜられるのだろうが、Nにしてみれば、自分は最初から目をつけられているので何を言っても駄目と言われるという気分だったのだろう。
その日の夕方、私はNの家に電話した。丁度、仕事から帰ったばかりの母親が出たのだが、最初、冷静に対応していた母親は、途中、「あんまりじゃありませんか、確かに髪の毛をいじった娘が悪いですけど、頭髪、頭髪って、異常じゃありませんか」と、私に訴えてきた。
私はNの姉を担任したことがあり、この母親と何度か会ったことがある。私は同世代の子を持つ親として、この母親の言うことが痛いほどよくわかる。母と娘とが夜、協力して髪の毛を黒くし、「明日、先生、『合格』と言ってくれるかしら?」と話している様子など想像するだに胸が痛むし、頭髪服装指導というのは、勉学の環境作りのために行うべきものであり、それを忘れて検査のための検査というように自己目的化してはいけない。それは丸山真男が「『である』ことと『する』こと」の中で「物神化」として戒めていることである。(中略)えてして教員は生徒の小さな欠点やウソ−臆病さや不完全さ、心のキズから生じ、それを何とか守ろうとする「包帯のような嘘」−を暴きたて、「指導」したがる。だがそれは教育の本質とは無縁である。むしろ、敢て見て見ぬふりをし、敢て立ち入らぬ方が大事なこともある。学校にはその学校全体の重心があり、それを見据えて教育活動を行なうのが大切である。勧善懲悪の真似事をしようとすると校則を過度に厳しくしがちであり、学校全体の重心が歪み、「水清ければ魚棲まず」のような窒息状態となってしまう。
エッセーの中で滝本氏が述べるように「検査のための検査」や「指導のための指導」というのは、白黒はっきりするまでどこまでも突き進んでしまうものであり、最後は指導する側も指導される側も困憊してしまう。ちょうど病気の検査のようなものである。人間誰しも多少の病因は持っているものであり、その病因が表面化しないように健康に配慮するのである。しかし、検査によって病因を明らかにし、その根絶に努めて治療や投薬を繰り返すと、かえって心身の健康を損ねてしまう。勿論放っておいて悪化させてしまっては元も子もない。あくまで心身の健康という大目標に向かって、滝本氏も指摘するように、病因を表面化させないような「敢て見て見ぬふり」が時には大事なのである。それは生徒を「見ない」ことではない。「見て」そして「見ぬふり」という無言のコミュニケーションが表面化を防ぐのである。いささか理想主義的な教育論議であるが、心の中に留めておきたい。