鷲田小彌太『大学教授になる方法:実践篇』(青弓社 1991)を読む。
はるか昔にぱらぱらと読んだような記憶がかすかにある本である。80年代後半から90年初頭の団塊ジュニア世代が大挙して大学に押し寄せた「大学バブル」時代に書かれたもので、知的好奇心とちょっとしたコミュニケーション能力と論文らしきものを書く能力さえあれば、運と我慢で大学教授になれると懇切に説く。近年の少子化と初等中等教育における学力低下を念頭に置いていないかのような見解でありがた迷惑な実践論である。この本を読んで大学教授を目指した現30〜40代の多くの非常勤講師は悲惨な人生を歩んだことであろう。
鷲田氏は研究の基本は読書にあり、読書論を展開しているのであるが、彼の読書の姿勢は、私と大変似通っており興味深かった。
私も読んだ本は右から左へと忘れていく。そして一度読んだ本の大半はすぐにごみ箱行きである。ただ、もう一度本の内容を思い出す必要に迫られたときのために、本の情報と、あらすじや主題、印象に残った部分を、時間軸で整理している。
時間軸で整理するというのは、野口由紀雄氏の『超・整理法』から得たアイデアである。
数少ないこの雑記帳の訪問者にとってまことに読みにくいこの断片的な文章と、時折挟まれる個人的感想や暮らしぶりは、私脳内の記憶の整理のためなのである。
(本を読んだあと、どうする?)読んだものはほとんど忘れてしまう。諦念からだけでなく、忘れるべきだ、とも考えている。私は、詩とか聖書とかを丸暗記して、詠ずる人を見ると、ただ驚嘆するしかない。次から次に読んで、忘れてゆくからである。ただ忘れた後に残ったわずかのもの、これは大切にしている。誰がいったかこれも忘れたが、どんなに厚い本でも、情報量は別として、本当に述べたいことは、三行くらいでテーゼ化できる、と信じている。ノートやメモは、再利用のためのものだが、人間精神はどこまでも貪慾だから、常にすぎるのである。再利用不能なほどに多くメモるのである。それで、忘れようとしてもなお極少に残存している本のエキス(と思うもの)を着火口となるような形で留めておけば、必要とあらばいつでも思考を発動できる、と信じ込んでいるわけである。