月別アーカイブ: 2002年8月

『読書はパワー』

聖学院大学での学校図書館司書教諭講習の「読書と豊かな人間性」の講義で課題に指定された本、スティーブン・クラッシェン『読書はパワー』(金の星社1996)を読んだ。
“free voluntary Reading”
クラッシェン氏は語彙レベルや内容にとらわれず、生徒が自由に読みたい本ム漫画本、ティーロマンスを含むーに没頭する「自発的自由読書」を提言している。そして多く読めば読むほど、直接的な国語指導以上に、読解、文体、語彙、綴り、文法の実力がつくことを明らかにしている。またそうした読書環境を支える出版環境、学校設備が豊かさが、読書資料を入手を容易にし、リテラシーはさらに発達することも検証されている。そして楽しい読書こそが更なる読書への興味を沸き立たせる唯一の方法だと述べる。

確かに私自身の経験を鑑みるに指示されて読んだ本ほど印象は薄く、つまらないものであった。むしろ気の赴くままに推理小説、バイクの歴史、古典文学、社会問題、恋愛小説とジャンルを問わず自由に読んた本の方が印象が強い。そして軽い本を読んだという経験がさらに難しい本の関心へとつながっていったことも確かである。教員は教科書に書かれている評価の定まった本を薦めてしまいがちであるが、それ以上に生徒の自由な読書環境を創ることに専念した方がよいことをこの本は教えてくれる。

『法科大学院』

山田剛志『法科大学院』(平凡社新書 2002)を読む。
ロースクールについての基礎的な事柄が押さえられた。今度の秋の臨時国会でほぼ原案通りで可決する模様であるが、来年度以降も法学部出身でない者への受験のあり方や、司法研修所制度の改革など、混乱が生じそうな模様である。私は法曹人口が増えるということに基本的には賛成であるが、民事法中心の実務家養成に重きが置かれている点が気掛かりである。私は法律は全く分からないが、中間まとめ案によるとロースクールでの法律基礎科目群60単位のうち公法系には10単位しか振り分けられないというのだ。また科目も実務家養成のための科目に厳選されているため、いわゆる法学チックな法哲学や法思想史、また総論的な授業は見当たらない。2年時から法律文章講座といった司法研修所のカリキュラムが前倒しされてしまっている。しかしこのロースクール制度によって様々なキャリアを持った多様な人材が法曹界で活躍する一助になれば良いのでは。

『大学活用法』

岩波書店編集部『大学活用法』(岩波ジュニア新書 2000)を読む。
大学教授から評論家やカメラマンまでが大学での教養の勉強から、大学は不要論まで自由に意見を述べている。まあ高校生にとってありきたりな進学雑誌よりはためになるものであろう。全体的には面白くなかったが、中で漫画家の竹宮惠子さんと佐高信氏の文章は興味深かった。竹宮さんはマックを使いこなす漫画家として過去にマック関連の雑誌に取り上げられたことがあるので、作品は読んだことないけど名前だけ走っていた。しかし彼女は徳島大学の学生時代に大学紛争に参加するためと、一年間漫画家の仕事を「休業」したという経緯の持ち主である。そして大学についてこう述べる。

私にゆっくり考える時間を与えてくれたところでした。学問という意味ではあまりしていないのですが、そうでない勉強をいっぱいさせてもらったし、一年間大学紛争の勉強をするためにマンガを描かなかったくらい、学ぶことはたくさんあったのです。そんなふうに自分を変える場というものが大学にはあったのです。大学でいろいろな人生勉強、社会勉強をしたことが自分のマンガの底の基礎をつくっていると思います

佐高信氏は自分の大学の授業以外の講義の「盗聴講」を勧める。そして大学で何を学ぶかという自問に対し、「ムダを学ぶ」と答える。このムダの意味することを学ぶことは難しい。そして真の意味でのムダを教えることは本当に難しい。

『セックス神話解体新書』

小倉千加子『セックス神話解体新書』(ちくま文庫 1995 原著:学陽書房 1988)を読む。
上野千鶴子をして「こんなに芸のあるフェミニストはいなかった」と言わしめた作品である。彼女は男女間の性的奴隷制度に近い差別を、生物学的な差別に還元せず、文化的な心理的なジェンダーであると断言する。そしてさまざまな地平に存在するセックス神話を見事なまでに「解体」していく。その論理展開の勢いには多くの男性は圧倒されるはずである。

小学校で初潮指導が行われていますが、これは女子だけを対象として行なわれます。つまり男女隔離教育です。そしてその際、どのように初潮を指導するかというと、必ず「これでもうあなたもお母さんになれる」「赤ちゃんをうめる身体になれる」「素晴らしいこと」という母性過度の強調が行なわれます。初潮は「おめでとう」という言葉で迎えられなければならない、というメッセージには、女の子に母性性を肯定させる意図が込められています。生理のマイナス面は決して教えない。そして男の子は生理についてほとんど知らない。母親になること、出産することは素晴らしいというイデオロギーの押しつけで、その危険性が指摘されることはないのです。

このような勢いで性教育、夫婦間のセックス、性の商品化、男の性欲などの諸相を切っていく。しかしその勢いがあまりに良いので、ほんまかいなと思えるような箇所もある。私が男であるという点も考慮に入れつつ、「ジェンダーは、実体というよりは人々の頭の中にあるイメージにすぎないのです。」と言い切るのは少し無理があろう。神話の解体の半分くらいは納得できるが、やはり男女の脳科学の分野における実体的差異は存在するのはないか。

この点はアランピーズ&バーバラピーズ『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社 2000)の中で男女の生来の興味・関心・行動の差異について詳しく論じられている。しかし面白い本なので、是非一読してみることをお勧めする。単に小倉氏の論が科学的な見地に立って正しいか正しくないかという点だけでなく、ものの見方を変えることで社会にはさまざまなイデオロギー装置が存在しているのだという発見ができる。また小倉氏は心理学を専攻しているだけあって心理学のテキストとして読んでも面白いであろう。大学時代にかすかに習った記憶がある「アヴェロンの野生児」や「アマラとカマラ」の話が改めて参考になった。

『村上朝日堂の逆襲』

村上春樹『村上朝日堂の逆襲』(朝日新聞社 1986)を読む。
マスコミにほとんど出ない春樹氏の私生活が垣間見えて興味深かった。特に彼が少し使用しただけのボールペンがたまっていき困っている様子が面白かった。

 五十本のボールペンは夜の雪のごとく静かに我が家にたまっていったのである。引っ越しのたびに僕はそのボールペンの束を前にして、心の底からうんざりすることになる。五十本のボールペンなんておそらく僕には一生かけたって使い切れないのだ。しかしそれではその不必要なボールペンを邪魔だからといってあっさり捨ててしまえるかというとこれができない。(中略)ときどき「もうインクが固まって書けなくなっているのがあるんじゃないかな」と期待して一本一本ためしてみるのだが、最近のボールペンは質が向上したのか、そういう例はほとんど見受けられず、がっかりしてしまう。

私自身物が捨てられなくて困っている。一間しかない狭いアパートなのに、物であふれかえっているのだ。文房具箱の中にも幼稚園時から使用している消しゴムやらチビた鉛筆を再利用するためのもの(何て表現すればいいのだろう?)やらごちゃごちゃ詰まっている。春樹氏のいうインクが固まったものがあるのではと期待して試してみるという点に特に共感を覚えた。