森本哲朗『僕の作文教室』(角川書店 1983)を読む。
「作文教室」と題うっているが、著者の学生時代の作文修行が半ばフィクション的に描かれている。今の私の問題意識と合致していてすんなり読むことが出来た。中で気になる箇所があったので、引用してみたい。
デカルトはこう言っているのである。難しい問題に直面したら、それを分割して考えたらよい、と。つまり、問題をいくつかに分けて、そのひとつひとつを解決してゆくことにより、やがて全体が解ける、というわけである。たしかにそうなのであって、これは何もデカルトに教えられるまでもない。げんに問題を「解く」という日本語がそれを語っているでないか。「解く」というのは、問題をバラバラに解きほぐすことなのだ。ついでにいうと、哲学が分かるとか、分からないとかいう、その「分かる」という言葉もそうである。それは問題を「分かつ」ことであり、問題を分かつことができたとき、ぼくらは「分かった!」というのだ。「分かった」とは、「分けることができた」という意味である。そして物事を分ける能力のある人、すなわち理解力のある人を、日本人は「分別のある人」と呼ぶ。
いささか強引な気もするが、今現在私が「分かる」とは一体どういうことなのか、答えが見つからないでいる。今日、聖学院大学での「学習指導と学校図書館」という授業で、これからは「生徒に答えを教える授業」から「生徒が問いを発する授業」へ転換していく必要性が強調された。真に「分かる」ということは、問題を分割して捉え、批判の視座を持ち、問いを発していくことなのだ。と言えども……。