『脳と神経内科』

小長谷正明『脳と神経内科』(岩波新書 1996)を読む。
神経内科医である著者が扱った癲癇(テンカン)などの神経系の病例の紹介が続く。一口に神経の病気といっても、外傷による脳内腫瘍が引き起こす痺れや痙攣(ケイレン)に始まり、神経細胞の異常による癲癇(テンカン)や、ウイルスが原因の狂犬病やクロイツフェルト・ヤコブ病、ホルモンバランスの異常によるクッシング症候群、その他脳梗塞や、アルツハイマー病、そしてスモンなどの薬物による感染など、その原因と対策は多種多様である。また中には「自律神経失調症」のように、軽いめまいとか、何となくのぼせた感じがするとか、そこはかとないイライラなど病名をつけようもない症状に対して、保険制度の穴を突っつくような診断までしなくてはならない。機械的な診療では患者の病因を正しく看ることは出来ないし、かといって献身的でありすぎても適切な治療が出来ないという大変な職業であることは十二分に伝わってきた。

『生と死の解剖学』

養老孟司『生と死の解剖学』(マドラ出版 1993)を読む。
「生死」という言葉があるように生と死は全く別ものと一般に考えられるが、解剖学の見地から考えると、生と死の境界線は微妙なものであり、廃人、脳死、植物人間等その境界線上に様々な現象がある。臓器移植の議論において必ず問題となるのが、どこに生死を分割する区切りを置くかという死の定義である。延髄が死んでも栄養を与え続ければ何年も生きることが出来るし、脊髄が死んで人工呼吸器を用いれば人間を生かすことは出来る。しかし、突き詰めていくと、細胞の隅々まで死んでいないと本当の死亡と認知することが出来ず、完全に白骨化するか、火葬するまで死亡と定義することが出来なくなってしまう。死体の処理が終わって始めて「死亡」が確認されるというヘンテコな流れになってしまう。死の定義が究極的には決められない以上、脊髄、延髄含めて脳が死んだら、法的な死と扱うべきだとする養老氏の主張は分かりやすい。

『脳のメカニズム』

伊藤正男『脳のメカニズム:頭はどうはたらくか』(岩波ジュニア新書 1986)を読む。
小脳のプルキンエ細胞におけるメモリー機能の研究で有名な著者であるが、ブロードマンの脳地図や3系統のシナプスの解説など分かりやすく、タイトル通り脳のメカニズムを勉強していく上での簡単な見取り図として最適な入門書となっている。
小脳という部位は脳幹・脊髄の反射機能や大脳の運動機能を正確・精緻なものにする特殊な働きを司る。そうした運動機能を高めていくために、小脳では何度も繰り返すことで正しい動きを記憶し、誤った動きとの誤差を修正する作用(適応制御系)が常に働いている。その正しい動きの信号を記憶するのが、小脳内のプルキンエ細胞の「可塑性シナプス」というものなのだそうだ。今後小脳の研究が進んでいくと、一度で正確な動きを記憶できるような神経伝達物質のサプリメントなんていうのが開発されていくのだろうか。

『文章読本』

丸谷才一『文章読本』(中央公論社 1977)を読んだ。
文章の書き方に関する本をしばらく読んでいたが、最後のまとめてして日本語そのものに関する本を手にしてみた。彼自身の表記に関する主義で、300ページの文章の全てが旧字体漢字を含めた歴史的仮名遣いで書かれており読破するのに大変手間取った。現在我々が使っている日本語は平仮名や片仮名、漢字の入り交じった和漢混淆文であり、平家物語を代表とする軍記物語からその流れは始まっている。そして、現代の日本語は従来の主語なし、句読点なしの古文の流れに、明治以降の翻訳文が入り交じって形成された経緯があり、時制や主語の有無、句読点の配置など多くの正解のない語法的問題を抱えてしまっている。著者は、そうした問題はきわめて個人的な美意識に関わるものであり、その個人個人の美意識と明晰なロジックを身につけるためには、古文や漢文に慣れ親しむことと、外国語を一つでもマスターすることだと述べる。

また文章の構成については、以下のように述べる。すでに高校生や大学生向けの技術的な文章指導ではなく、専門に言葉を使うものへの美的な文章構成の教授となっている。

緒論・本論・結論といふ三分法にはとらはれないほうがいい。それは紐を一本、横にまつすぐ置いたやうな、曲のない文章を書かせる危険が大きいからである。われわれが書かなければならないのは、一本の紐が螺旋階段さながらに屈曲しながら宙へ昇る、古代の魔術のやうな文章なのだ。その手の文章を心がけるに当つては、緒論・本論・結論ではなく、起承転結といふ分け方を念頭に置くほうがよいかもしれない。もちろんこれは、漢詩における絶句および律詩の構成である。
(中略)
しかし、長短さまざまなの自由な散文を書くに当つて、是が非でも起承転結の型にはめなくちやならぬといふ法はない。いや、この四分法だけではなく、三分法や五分法やおよびそれに類した規制のどれかを取つて、文章構成の普遍的な規則を立てることではなく、優れた文章に出会つたとき、その一つ一つを具体的に検討して、どういふ具合に組み立てられてゐるかを調べることだけだ。が、その検討がまたなかなかむづかしい。
(中略)
構成といふのは究極のところ論理がしつかりしてゐるといふことなので、話の辻褄が合はず、話が前へ前へと進まなければ、緒論・本論・結論も、起承転結も、単なる形式、無意味な飾り、詰らぬ自己満足になつてしまふ。(中略)文章を一本の線としてとらへるのをやめ、一つの平面だと考へることである。一本の糸ないし紐ではない、一本の織物としての文章を書かうと心がけることである。そういう比喩を念頭に置くことは、結構を整へ脈絡をつけるのにずいぶん役立つやうな気がする。

『知的生活の方法』

渡部昇一『知的生活の方法』(講談社現代新書 1976)を読む。
本は「読む」だけものではなく、「使う」ものであり、生活費を削ってでも自分のものにしろというアドバイスは良かった。しかし、他はカントの生活を真似して英文法の神髄を極めたという自らの神童ぶりを自慢気に語り、古き大学の象牙の塔を思わせる閉鎖的な「知的」生活のススメという面白くない文章が並ぶ。