丸谷才一『文章読本』(中央公論社 1977)を読んだ。
文章の書き方に関する本をしばらく読んでいたが、最後のまとめてして日本語そのものに関する本を手にしてみた。彼自身の表記に関する主義で、300ページの文章の全てが旧字体漢字を含めた歴史的仮名遣いで書かれており読破するのに大変手間取った。現在我々が使っている日本語は平仮名や片仮名、漢字の入り交じった和漢混淆文であり、平家物語を代表とする軍記物語からその流れは始まっている。そして、現代の日本語は従来の主語なし、句読点なしの古文の流れに、明治以降の翻訳文が入り交じって形成された経緯があり、時制や主語の有無、句読点の配置など多くの正解のない語法的問題を抱えてしまっている。著者は、そうした問題はきわめて個人的な美意識に関わるものであり、その個人個人の美意識と明晰なロジックを身につけるためには、古文や漢文に慣れ親しむことと、外国語を一つでもマスターすることだと述べる。
また文章の構成については、以下のように述べる。すでに高校生や大学生向けの技術的な文章指導ではなく、専門に言葉を使うものへの美的な文章構成の教授となっている。
緒論・本論・結論といふ三分法にはとらはれないほうがいい。それは紐を一本、横にまつすぐ置いたやうな、曲のない文章を書かせる危険が大きいからである。われわれが書かなければならないのは、一本の紐が螺旋階段さながらに屈曲しながら宙へ昇る、古代の魔術のやうな文章なのだ。その手の文章を心がけるに当つては、緒論・本論・結論ではなく、起承転結といふ分け方を念頭に置くほうがよいかもしれない。もちろんこれは、漢詩における絶句および律詩の構成である。
(中略)
しかし、長短さまざまなの自由な散文を書くに当つて、是が非でも起承転結の型にはめなくちやならぬといふ法はない。いや、この四分法だけではなく、三分法や五分法やおよびそれに類した規制のどれかを取つて、文章構成の普遍的な規則を立てることではなく、優れた文章に出会つたとき、その一つ一つを具体的に検討して、どういふ具合に組み立てられてゐるかを調べることだけだ。が、その検討がまたなかなかむづかしい。
(中略)
構成といふのは究極のところ論理がしつかりしてゐるといふことなので、話の辻褄が合はず、話が前へ前へと進まなければ、緒論・本論・結論も、起承転結も、単なる形式、無意味な飾り、詰らぬ自己満足になつてしまふ。(中略)文章を一本の線としてとらへるのをやめ、一つの平面だと考へることである。一本の糸ないし紐ではない、一本の織物としての文章を書かうと心がけることである。そういう比喩を念頭に置くことは、結構を整へ脈絡をつけるのにずいぶん役立つやうな気がする。