湯谷昇羊『サムライカード、世界へ』(文春新書 2002)を読む。
日本生まれの純国産クレジットカードであるJCBのここ20年近くの独自海外路線を追ったルポルタージュである。ちょうど高度成長期における日本のメーカーの海外進出奮闘記を思わせ、NHKの『プロジェクトX』を観ているような展開である。VISAやマスター、アメックスといったアメリカ系の大手カード会社に対して、日本人のサービス精神を生かしたきめ細かいサービスで対抗しようとするJCBの路線は、アジアを中心に着実に受け入れられ、今や世界の4大カード会社に成長しつつある。現在JCBは国内よりも中国市場にシフトを移しつつあるが、中国での顧客獲得のいかんによっては世界一のカード会社をうかがえそうな勢いである。
『知的創造のヒント』
外山滋比古『知的創造のヒント』(講談社現代新書 1977)を読む。
文章の構成から、今度は着想に関する本を何冊か読もうと思うが、この外山氏の文章はいささか古いせいもあり興味を引くような箇所はなかった。一部日本人論を扱った項があり、そのなかのオリンピックに関する話が興味深かった。当時はモントリオール大会であろうか。世間を重んじる日本人の意識というのは、今回のアテネ大会においてもまだまだ残っているようだ。
オリンピックで日本選手の成績がパッとしないというので、よく強化策が問題になるが、いちばんいけないのは日の丸をもってかけつける応援である。できない相談なのは分かりきっているが、オリンピック選手以外の日本人は行かないように、選手も自分の出場する試合以外のところへは顔をださないようにすれば、選手はリラックスしてもてる力を存分に発揮することができるだろう。なまじ知った人間がいるために、知らなくても日本人の応援があるために、勝たなくてはと固くなって逆に負けてしまう。日本人にはこの「手前」の思惑がことにいけないようだ。
米軍ヘリ墜落事故
本日の東京新聞の朝刊で、沖縄国際大学で起きた米軍ヘリ墜落事故のその後の推移についての丁寧に報道が載っていた。
幸いにも怪我人が出なかったため、単なる不遇な事故として扱われ、アテネオリンピックの報道合戦の陰に隠れてしまったが、何とも不愉快な話である。安易な「安全点検」終了後、事故の2日後には普天間飛行場での輸送が再開され、10日も経たないうちに同型のヘリが「イラクの自由作戦」への展開指令を受けて同飛行場から飛び立っている。すでに在日米軍は日本を他国の脅威から守るものではなく、米軍の一国中心主義の世界戦略の一端を担っているに過ぎない。沖縄の米軍基地は、米軍の一方的な正義のみが喧伝されるイラク戦争の「後方」基地であり、アジアにおける米軍のプレゼンス(脅威)を示すための「広報」基地になっているのである。
昨日沖縄の稲嶺知事と小泉首相が日本の捜査権を阻む日米地位協定の改定について話しあったが、党派的な言い方をするならば、沖縄における米軍基地のレーゾンデートルを無視した上での改定論議は「全くもってぇ、自民党小泉政権による茶番以外なにものでもない!」ものである。イラク戦争の是非、北朝鮮を含めたアジアにおける協同的な安全保障の枠組みという視点に立って、この米軍ヘリ墜落事故を見ていきたい。
『職業としての学問』
マックス・ウェーバー『職業としての学問』(岩波新書 1936 尾高邦雄訳)を読み返す。
マックス・ウェーバーが1919年1月にミュンヘンで行った講演録である。学問の世界で食っていこうとする若い大学講師に仕事への専心を説く内容となっている。
予言者は煽動家に向かっては普通「街頭に出て、公衆に説け」といわれる。というのは、つまりそこでは批判が可能だからである。これに反して、かれの批判者ではなくかれの傾聴者にだけ面して立つ教室では、予言者や扇動家としてのかれは沈黙し、これにかわって教師としてのかれが語るのでなければならない。もし教師たるものがこうした事情、つまり学生たちが定められた課程を修了するためにはかれの講義に出席しなければならないということや、また教室には批判者の目をもってかれにたいするなんびともいないということなどを利用して、それが教師の使命であるにもかかわらず、自分の知識や学問上の経験を聴講者に役立たせるかわりに、自分の政治的見解をかれらに押しつけようとしたならば、わたくしはそれは教師として無責任きわまることだと思う。
近年大学でも就職率や学生の生活指導など、教育的側面が強くなってきて、学生の興味を懸命に喚起しながら学問を「教える」ということに腐心している。しかし、大学で教壇に立つ者は、本来は学問に対して謙虚であらねばならず、学問を使って学生を何とかしようなどとするのは身分不相応であるとウェーバーは述べる。学生時代に読んだときは教室を無風な空間としようとするウェーバーの意見に違和感を覚えていたが、学問に対して敬虔であれとする忠告は少し分かるようになってきた。
『心理テスト』
岡堂哲雄『心理テスト:人間性の謎への挑戦』(講談社現代新書 1994)を読む。
質問紙法、投影法、問答法と様々な形式で行われる知能テストや性格テストを分かりやすく解説した入門書である。これまで懸命に暗記していた心理テストの全体像がつかめるようになった。筆者はいかがわしい性格テストや占いが横行している社会に対して次のように警告を発する。得てして精神障害者差別に対する反論としては、障害者も健常者も同じだという根拠の薄い道徳的な論陣が張られるが、科学的な根拠や数字を示すことで差別に対峙しようとする著者の姿勢は科学者として大変評価できるものである。
わが国でも、普通の人々が理解できない奇妙な言動をする人をたとえば、「狐つき」と呼び、座敷牢にいれて隔離した。また、松葉を焚いて、狐をいぶし出そうとした。このような事件は、第二次世界大戦後も地方ではしばらく続いたことを忘れてはなるまい。
ほぼ単一民族であった日本では、もともと人並みであること、普通であることが大切であって、ものの見方・考え方が並はずれて独創的な人は「変わりもの」として畏怖され、村八分などの形でグループから排除されたものである。明治以後の急速な西欧化のなかで、大和民族の優越性のイデオロギーがアジアの他民族に対する偏見と相まって、科学的で客観的に人間を理解しようとする心理学、とくに心理テストの発展をいちじるしく妨げてきた。第二次世界大戦後においてもたびたび社会的な問題となった知能検査,IQ(知能指数)、偏差値などに対する感情的な非難のなかには、個体の独自性や個性の重視よりも「みんな一緒」主義的な傾向を暗示しているものがある。
ある時代・文化に特有の「心の健康」に関する基準あるいは特定の宗教やイデオロギーの指導者による異常性の判定は、往々にして非科学的で、客観的な根拠なしのきめつけであることが少なくない。しかも、その判定の裁可によって精神障害者や家族が社会的に差別されたり、心理的に疎外されることが繰り返されてきている事実に注目しなければならない。
心理テストは、このような理不尽な差別に対する科学的な批判を基本的視点とし、可能な限り客観的で信頼できる妥当な「正常と異常」の判定基準を求めて開発されてきたものである。これまで、発展途上であるゆえの錯誤や偏見が時には心理テストを誤解させ、人々を困惑させることもままあった。本書では、知能検査・性格検査を中心に心理テストの考え方、その効用と限界等について述べることにしたい。
1938年にニューヨーク大学の臨床心理士ウェクスラーが発表したウェクスラー式のIQテストが知能テストとしては世界的に有名である。この検査法は単語や数唱、理解といった言語性尺度と絵画配列や積木模様、組み合わせといった動作性尺度の二面性からIQをトータルに測るものである。
日本版WAISーRの知能水準の分類は以下の通りである。きれいに上位10%が「天才」とカテゴライズされ、下位10%が精神遅滞と疑われるラインに分類されている。その割合がほぼ同じだとはオドロキであった。ちなみにこの知能テストの境界線上に位置するIQ70~79の者の割合6.3%は、文科省が「今後の特別支援教育の在り方について」の答申で出した、普通学級に所属するADHD、LD、高機能自閉症児の在籍率の推定割合6.3%と全く同じである。上位10%の勉強が出来る者には注目が集まるし、配慮もなされるが、下位10%の学習困難な者に対していかに教育的なニーズを把握し、その持てる力を発揮できるか、今後の教育改革の大きな焦点になっていくであろう。
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IQ
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知能水準
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