『何を書くか、どう書くか』『現代文の書き方』

少々古めの小論文の参考書をひも解いてみた。
板坂元『何を書くか、どう書くか:知的文章の技術』(光文社 1980)を読む。パソコンワープロ普及以前の作文技術となっており、カードを利用した発想法を含めて、トータルに文書を考えて文字に表現するまでを述べる。

扇谷正造『現代文の書き方』(講談社現代新書 1965)を読む。
元新聞記者である著者は、新聞のコラムの基本である600字作文を繰り返すことが文章上達の近道であると述べる。400字だと文章の主旨の骨しか組めないし、800字だと飾りとなる肉が多すぎて「情報化社会」(古い表現であるが…)においては冗長になりすぎる。ちょっと味の利いた要旨簡潔な文章は600字が一番良いと著者は述べる。

文章の書き方に関する本をここ数日何冊か読んでみたが、現在の小論文指導には二つの潮流があるようだ。一つはアメリカ型の文章指導や新聞の記事などに代表されるような「序論・本論・結論」型の3段落構成である。序論においてトピックを示し、そのトピックを一般化、深化させていく展開を取る。もう一つは漢詩の絶句に見られる「起承転結」型の4段落構成にまとめる文章である。最初にトピックを示すことはなく、読者に興味を持たせながら結論まで展開していく。前者が演繹的な展開になりやすいのに対し、後者は帰納的な流れに落ち着きやすい。こうした大きく二つの文章の捉え方が入り組んで現在の小論文指導があるようだ。どちらが良いともどちらが正しいとも言えないが、短期間における小論文指導では自分の書きやすい型をまず作らせるべきであろう。

『マッハ!!!!!!!!』

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ブラッチャヤー・ビンゲーオ監督映画『マッハ!!!!!!!!』(2003 タイ)を観に行った。
ちょうど初期の『蛇拳』や『木人拳』のジャッキーチェンのような手に汗握る肉体を酷使するアクション映画である。盗まれた仏像の頭部分を取り戻すという至って単純な話なのであるが、スタントマンやCGを使わず全て主役の俳優が演じているので、観ていて気持ちいい。最後のクレジットの流れるところでNG場面も出てきたのだが、苦労の一端がよく分かった。

□ 映画『マッハ!!!!!!!!』公式サイト □

夏休みということでめずらしくレンタルビデオ屋から映画を二本借りてきた。『ニューシネマパラダイス』と『チル』という作品である。『ニューシネマ〜』の方は定評のある作品であり、映画館好きな私としては共感出来る部分も多かった。『チル』というアメリカで2001年に公開された映画であるが、私が今までに観た映画の中でも最低の部類に入る作品であった。子どもだましな鹿のお化けが人間をとっちめるというホラーともサスペンスとも言いがたい内容不明な映画であった。

『知的生活を楽しむ小論文作法』『入門・論文の書き方』

そろそろ仏教大学のレポートをまとめなければならないのだが、考えてみれば今までレポートのまとめ方についてしっかり推敲を重ねたことがなかったので、論文の書き方についての本を少し読んでみた。

鷲田小彌太『知的生活を楽しむ小論文作法』(三一新書 1992)を読み返す。著者は小論文とは特殊な知識や技術を必要としない、相手を理解させる筋道だった文章だと明確に定義づける。そして必要なものは高校の教科書にある「教養」であり、ヘーゲルのいうところの「理性的なものは現実的なものである。現実的なものは理性的である」教養を学ぶことに重点を置く。初心者には少し難しいストレートな小論文の指南書となっている。

書くために読むのは、精神の集中をうながす。ひどくよく読めるのである。漫然と読むことがないのである。よく読もうと思ったら、書くために読むのがいい。私が、小論文上達の最良の道は、読んだ本を解説したり書評をすることにある、と考えるのも同じ理由からである。しかし、小論文の色合いの微妙な違いは、テーマに直接関係の無い「教養」を、どれだけ身につけているかによって決まるのである。この違いは、微妙だが、如実に現れるのである。そして、「教養」のつけ具合は、どれだけ読んでいるかによって決まる、と言ってよい。もとより「読む」(read)とは、書物を読むことだけを意味しない。世界という書物を読むのである。しかし、書物を通して読まれた世界は、広大無辺なのである。尽きるところがないのである。探索の果てがない、と言うことだ。しかもいながらにして読めるのである。片手でつかめる程度の書物の中に、世界の知識や情報がパックされているのである。

同じ著者であるが、鷲田小彌太『入門・論文の書き方』(PHP新書 1999)を読む。PHPから出ているせいもあろうが、上記の著書と比べ、渡辺昇一を礼賛し、共産主義研究の著書は全て無駄なものになったという吐露したり、少々露悪な内容になっている。しかし読者の読むスピードも考慮しながら文章を明快なものにする工夫が大切だという意見は分かりやすい。先に見出しや目次を作って全体像を押さえながら、それぞれの項目の中心論点をキイワードやキイフレーズにまで絞り込んでいくことで、一項目に詰め込む内容をスリムにすることが出来る。大論文だろうと小論文だろうと、一つの論点に対しては原稿用紙5枚くらいが限度である。大きなテーマになればなるほど、論点を増やして一つ一つの論点をスリムにしていかないと独りよがりの文章になってしまうという指摘は耳が痛い。

『スポーツが世界をつなぐ』

荻村伊智朗『スポーツが世界をつなぐ:いま卓球が元気』(岩波ジュニア新書 1993)を読む。
著者は卓球という一球技の組織や活動を通して、国や宗教といった壁を越えて交流することができるスポーツの可能性を述べる。私は卓球というと中国を中心としたアジアのスポーツという認識があったが、元々はフランスやイギリスの宮廷スポーツであり、100年ほど前からヨーロッパを中心に広まったものだそうだ。確かに卓球は肉体を限界まで酷使する競技から、温泉や老人ホームでの気楽な運動まで幅広い年齢層のものがそれぞれの能力に応じて楽しむことが出来るものだ。日本卓球協会でも「生涯学習」の一環として卓球を位置づけており、ライフステージのそれぞれの段階に応じた卓球のあり方を示そうと改革を進めている。得てして選手に手厚い競技団体が多い中、先見の明がある団体である。日本にも多くの体操や、球技、武道団体があるが、指導者を育て、子どもを育てることに力を入れている団体こそが長い目で見たときに息長く活動していけるはずである。

よくスポーツの概念がピラミッドで考えられていますが、日本卓球協会のばあいには、トップがオリンピック選手、その下に競技選手が続き、底辺があるというような上下関係の一つのピラミッドで考えるのはやめようということで成功しています。二つの山、つまり阿蘇山のような生涯スポーツの山と、槍ヶ岳のような競技スポーツの山がある。二つはパートナー関係で、上下関係ではないと見なしています。一つの山から、もう一つの山へ移るばあいもあるし、どちらもそれぞれりっぱな存在意義があるのだ、そういう考え方に変えようとしています。

『大学大競争』

読売新聞大阪本社編『大学大競争:「トップ30」から「COE」へ』(中公新書ラクレ 2003)を読む。
「COE」とは「21世紀COEプログラム(Center of Excellence)」の略称で、「我が国の大学に世界最高水準の研究教育拠点を学問分野別に形成し、研究水準の向上と世界をリードする創造的な人材育成を図るため、重点的支援を行う」という文科省の大学院博士課程の重点的拡充のための呼び水的な政策のことである。これまでの予備校の模試結果からはじき出された偏差値による序列から、文科省がお墨付きを与える「旧帝大+一橋・東工大・筑波大・早慶」などの研究拠点校をトップとした序列への再編成が目論まれている。特にこれまで表面的には公平を前提とした国公立大学を大きく研究中心の大学と市民養成の教育中心の大学へと色分けしていくためのハードルとしてCOEは機能する。そのため神戸大や広島大、東京外語大、お茶の水女子大などの旧帝大に次ぐクラスの大学が文科省による色分けの当落線上にあり、COEへの採択状況の度合いが大きく今後の大学運営を左右するリトマス紙となっている。