本日の東京新聞夕刊の文化欄に掲載された、小説家小手鞠るいさんのエッセーが興味深かった。引用してみたい。
物書きのはしくれとして、私が長年「なんとかならないか」と思っている日本語があります。それは「いじめ」という言葉です。調べてみるといじめは、1985年に全国の小・中学校で横行し、大きな社会問題になっています。それから30年近くが過ぎようとしているのに、状況は一向に改善されていない。その要因のひとつとして、「いじめ」という言葉が、個々の実態を性格に言い表せてないだけでなくて、むしろ問題の深刻さを人々の目から遠ざけている、つまり、煙幕、隠れ蓑のようなものになっているのではないかと、私には思えてならないのです。かつて、幼児や児童や若い女性に対する性的虐待やレイプが「いたずら」と呼ばれていた頃に抱いていた違和感と同じです。
たとえば、金銭を巻き上げたのであれば「恐喝」と、暴力が伴っていれば「暴行」と、複数でそれをやったのなら「集団暴行」と、たとえ言葉だけの攻撃であっても「言葉による暴力」と、個別に正しく、具体的に表現するべきではないでしょうか。被害者が自殺してしまった場合には「執拗な嫌がらせによって、相手を死に至らしめた」と、加害者にフォーカスして表現することによって、事態を看過(ときには加担)していた教師、学校に対しても、それは重大な「犯罪」であったと、認識させることができるかもしれない。
あいまいなひらがな言葉や外来語などで物事の本質が誤摩化されてしまう。そうした言葉の危険性が指摘されている。また人畜無害なはずの「平和」や「愛情」といった言葉の裏側にも、悪質な実態が糊塗されていることがある。言葉が目の前をどんどん流れていく、現代のネット時代においてこそ、言葉を真摯に見極め、言葉が示す物事をじっくりと見つめていく能力と余裕を養いたい。