今、公安警察を舞台にした小説を読んでいるのだが、「さくら」や「ちよだ」といった裏の警察事情や、警察庁公安部と警視庁公安部の確執といった話がモチーフとなっており、読んでいるうちに話がこんがらがってしまった。
そこで、数年前に読んだ青木理『日本の公安警察』(講談社現代新書 2000)を読み返した。
警察庁警備局、警視庁公安部、公安調査庁、内閣情報調査室などの日本の公安・情報関係の省庁の役割と現状について分かりやすく書いてあった。しかしいずれの機関にしても、恣意的に「危険」なる人物、状況をでっち上げて、治安管理の錦の旗の下に組織の延命を図るというえげつない組織の論理に支配されている。
「はじめに」の中で著者のスタンスが明確に述べられている。
自自公という不可思議な絶対与党体制が成立して以降、為政者たちが長らく望んでいた監視と管理のシステム強化作業が着実に進められてきた。盗聴法、改正住基法の前にはガイドライン関連法、国旗・国歌法が、後にはオウム真理教対策のための団体規制法が相次いで成立し、破壊活動防止法の改正、さらには憲法改正までが視野に入りつつある。いずれも国家機能強化を図るための一種の治安法の整備作業と言ってよいであろう。
冷戦構造崩壊後、オウム真理教というカルト集団の出現や朝鮮半島を取り巻く不穏情勢など、この国の内外には確かに新たな不安定要素が浮き沈みし、一連の法整備はこれらへの「対応策」との体裁が取られつつ進められてきた。全てがそうではないにせよ、監視と管理機能を強化する治安法整備である以上、その背後に見え隠れするのは警察を筆頭とする巨大な治安機関の姿である。本来ならばその実像は、法制定の過程において情報の公開と議論の対象となるべき一大テーマでもあった。だが治安機関を覆い隠すベールは厚く、漏れ伝わってくるデータは極めて微少で、公刊されている記録はほとんど存在せず、結局はさほど議論の起きないままに治安法整備作業のみが着々と進められてきた。
治安機関をテーマの一つに取材を続けてきた経験則から言えば、実は「対応策」なるものは単なる名目に過ぎず、国家機能の強化自体が目的なのではないのか、そう感じることすら往々にしてあった。なのに治安機関の姿は一向に見えないまま、その機能強化システムばかりが組みあがっていく‐強く感じた(通信傍受法が成立した国会を眺めながら感じた)倦怠感を言葉に変換するならば、こんなところだろうか。