本日の東京新聞夕刊に阪神とダイエーで活躍した大野久氏の近況の記事が載っていた。
プロを引退してから教職免許をとって現在東洋大学牛久高校の社会科教師として野球部を指導しているということだ。単なるコーチではなく,担任も受け持ち3者面談もこなしながら,忙しい毎日を送っているそうだ。教員世界の多様化という趣旨を鑑みても,今後どんどんプロスポーツの世界と教育がこのような形で交流が広がればよいと思う。
8月12日から16日まで東京新聞夕刊に「戦争を考える」と題したコラムが連載された。特に大澤氏の危機管理状況が生み出すファシズム的な動向など,なかなか興味深い分析もあったのでかいつまんでまとめておきたい。
8.12 野田宣雄『帝国秩序と軍事力』〜容易に崩れぬ一極支配構造
サミュエル・ハンティントンが指摘した「文明の衝突」的な各文明間の戦争という図式では収まりきれない戦争が相次いでいる。21世紀には,米国を頂点とする全地表的な帝国と,仏・独・露・中などの各文明圏を舞台とする副次的な小帝国の二層の秩序がそのときどきに微妙に相互の力関係を変えながら,自らの秩序を擁護し安定化させるために軍事力を行使するようになるだろう。
8.13 渡辺えり子『判らないことだらけ』〜物言える時になぜ無関心装う?
今の日本の大人たちは逆に大戦の記憶から逃れられなかったせいで無関心をという衣を着込んだのではないか? それは絶対権力が強かった時代から自己主張を封印することが美徳だと考えざるを得なかったころの癖が続いているのだろう。とすれば,私たち,戦後生まれの世代が自由な頭で本当の平和,本当の豊かさを探り,子どもたちに「非戦」の大切さを教えて行かねばならないだろう。
8.14 姜尚中『「イラク戦争後」の世界』〜脅威を生み出し,米国の存在喧伝
イラク戦争において米国に同調した日本と英国,この3国は本土での大規模な地上戦を経験したことがない。一方反対の意思を明かにした有力諸国は,かつて地上戦で膨大な人命の犠牲を余儀なくされている。そう考えると,アメリカとその有志同盟国である日英と,ユーラシアとの対立が,天然資源や戦略的資源エネルギー問題も絡んで,今後の世界を彩る基調になっていくことが予想される。
8.15 Urvashi Butalia『世代を超え「心の傷」』〜元には戻らぬ社会生活の織り目
戦争や紛争が起きた時,女性たちが多くの場面で最も酷いめに遭うが,しかしながら平和について話し合いが持たれるとき,そこに女性たちはいない。だからこそ,戦争を起こす人間ではなく,傷付きやすい者,貧しい人々,子どもたち,女性たち,老人たちや弱い人々の立場から,戦争の原因と結果の両面においてあらゆるレベルで戦争に抵抗しなければならない。
8.16 大澤真幸『能動的な自己放棄』〜他者の不確実性 まず受け入れを
昨年提起されたブッシュ・ドクトリンの特徴は,先制防衛というアイデアにある。先制攻撃が防衛と解しうるのは,ことが起きる前に,他者が攻撃してくることが,つまり他者が狂気であることが確実だからである。今やアメリカは,イラクやイラン,北朝鮮など反米的な原理主義者の存在そのものに耐えられないところにまできているのだ。
しかし非肉なことに,アメリカの同調する先進資本主義国の側でもネオナチやハイダー,ブキャナンなど原理主義者を連想させる極端なポピュリストや人種主義者が生まれている。もしわれわれが他者の他者性(不確実性)を過度に恐れるならば,つまり異質な他者の攻撃(テロと戦争)や侵入(スパイ)を恐れるならば,われわれが手にするのは,結局,原理主義者が求めていたものとさほど変わらない社会になる。というのも,狂信的な民族主義や人種主義の言葉を退けたとしても,今度はセキュリティーへのきわめて現実的で世俗的な配慮のもとづいて,ときには人種主義的とも目される排除が正当化され,自由が圧殺されうるからである。原理主義者が,表面上の政治的敗北を通じて,結局,「初志」を貫徹することになるのだ。
それならば,われわれは他者の他者性を全面的に受け入れ,その脅威を骨抜きにするしかない。哲学者ジル・ドゥルーズはかつて,サドとマゾとが相補的な関係にあるという通念は間違っており,マゾは,むしろ,サド的な攻撃を無効化する方法であると述べている。もし従属者が自己への攻撃に快楽を覚えているとするならば,サド的な主人の拷問は拷問でなくなってしまうからである。だから国際政治の場面においても,われわれが能動的な自己放棄に快楽を見出すならば,もはやわれわれへの攻撃は無意味なものとなるだろう。自己放棄,これこそが積極的な平和主義である。