日別アーカイブ: 2003年8月18日

『英雄(HERO)』

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チャン・イーモウ監督『英雄(HERO)』(2002 香港=中国)を春日部駅東口にあるロビンソン百貨店まで観に行った。
テレビCMを見ている限りでは『マトリックス』ばりのCGが目を見張るが,内容的には極めて古典的な人間感情がテーマであった。天下統一に邁進する巨大国家「秦」に翻弄される小国「趙」に住む剣士の話である。秦王と刺客無名との間に交わされる物語は二転三転していく。その中で秦による天下統一を歴史的に正当な流れと見るのか,否かを巡って,男女の恋愛感情が揺れる。また,その中でたった一本の剣によってまさに歴史が動いていくダイナミズムと,いわばそうした歴史の大河の被害者ともなる秦王の孤独が明かになっていく。映像よりもその内容のスケールの大きさに脱帽した。中国映画恐るべしといった感だ。

『オートバイライフ』

斎藤純『オートバイライフ』(文春新書 1999)を読む。
オートバイに関するメカニズムや雑学ではなく,「オートバイ乗りのための〈精神実用書〉」となっている。車で電車でもなくバイクを選択することに意義を求めんとした本である。

(自分を見つめるということについて)オートバイは機械にすぎない。オートバイに過大な期待をしても無駄だ。オートバイは何からも救ってはくれない。自分を救えるのはオートバイに乗る自分しかいない。オートバイに乗っているときも,死んだ振りして会社勤めをしているときも,それは同じ自分自身なのだと認めることは孤独なことかもしれない。けれども,オートバイ乗りはもともと孤独には慣れているはずだ。数百キロの道のりを,たった一人で旅するあいだ,オートバイ乗りが対話をできるのは自分自身だけだ。それをオートバイ乗りは少しも孤独と思わないで,平然とやってのけるではないか。本質的にオートバイ乗りは孤独を恐れない。自我と向き合う勇気を持っている。

著者は片岡義男を敬愛しているためか,ウォルデン森のソローの著作の影響か,「ワイルドな感傷主義」とでもいうべき小説家的な視点からオートバイライフを振り返る。所々に賛同し難い箇所は残るが,上記のバイク乗りが孤独に慣れているという点は同意出来る。決して孤独が好きな訳ではないと思うが,確かにハンドルを握りながら半日もの間,自己としか対話をしないというのは禅に通ずるものがあろう。

PS.この斎藤氏であるが,ネットで調べたところ来週投開票の盛岡の市長選に立候補を決めているそうだ。バイクに乗っている小説家がどのような政策を公約するのか,注目していきたい。