月別アーカイブ: 2003年7月

『ブロードバンドを使いこなす』

石田晴久『ブロードバンドを使いこなす』(岩波アクティブ新書 2002)を読む。
2月に引っ越しをしてからというもの、ADSL回線がすぐに切れてしまい不満を抱えており、そろそろ次の回線をと思っていたところだったので大変タイムリーであった。素人向けに書かれているのでブロードバンドの技術的な点がよく理解出来た。そもそもデジタルだから突き詰めていけば、全て0か1の世界である。しかしそのデジタル信号の伝送方法は10BASE-TやISDN、ADSLなどで大きく異なる。特にADSLはデジタルと言えども途中の信号は変調されてアナログ(正弦波)になっており、グラフで確認することが出来るのでなかなか興味深い。昔サーモグラフィをどきどきして眺めていた頃の記憶がよみがえる。大学の情報分野でも通信工学科は受験生にとってぴんと来ないのか他学科に比べて人気は今一つだが、これから面白くなる分野であろう。

『現代人のための仏教』

平川彰『現代人のための仏教』(講談社現代新書 1970)を読む。
かなり版を重ねている本で、仏教の入門書としては良くまとめられている。阿弥陀や菩薩、観音など分かっているようで分かっていない用語について丁寧に説明してあった。その中で、「中道」という言葉の説明が面白かった。「中道」という言葉の雰囲気から、私は勝手に争いを避けるための妥協点探りのことだと考えていた。しかし著者は次のように説明する。なかなか良いことを言っているので全部引用する。

中道とは、調和を実現する智慧です。たとえば、1メートルの中間は50センチですが、その中間点を見つけるためには1メートルの全体を正しく見なければなりません。つまり全体を正しくつかむことが、中を発見する前提になる。われわれがなんらかの問題に対して中道を見つけるためには、その問題がどれだけの範囲にあるか、その問題の全体を見通さねばなりません。この全体観ということが、中を実現するための第一段階の智慧です。つまりその事件、その問題を正しく見通す、問題に対してじゅうぶんな認識を持つ、理解を持つことが、中道の第一の条件になります。
第2は、その全体において、中を選び取ることが必要です。つまり全体観についての正しい智慧、批判的智慧が必要なわけです。1メートルのまん中というのは、問題が簡単なので容易に中が見つかりますが、複雑な事件の場合には、その中を見つけることは容易ではありません。見つけるためには利己心を捨てることが要求されます。つまりわれわれの現実の問題は、我と汝の世界において展開するものであり、われわれに自己を重んずる、自己の利益を捨てられない、というように利己心がある場合、我と汝の中間を見つけることはほとんど不可能です。われわれが中を発見しようと思えば、この利己心を捨てなければなりません。つまり中は公平なる精神から生まれるといえます。また中というものは選び取るものであって、そのためには正しい批判が要求されます。中は批判的選択の智慧です。

なかなか人間の悩みの本質を言い当てている。急を要する目の前にある悩みほど、実体以上に大きく大きく感じてしまい、これさえ解決すれば、万事がうまくいくはずだと、視野狭窄に陥ってしまい問題の全体を見通すことが出来なくなってしまう。「中道」を心掛けるということは言うほど易しいものではない。

『小説一八史略(1)』

陳舜臣『小説一八史略(1)』(講談社文庫 1992)を読む。
殷の紂王から秦の始皇帝までの約800年を概観したものだ。『史記』と重なっている部分も多く、有名なエピソードばかりである。「臥薪嘗胆」で有名な夫差と子胥のエピソードや始皇帝の統一までの生い立ちなど知っているようで知らない興味深い話が多かった。陳舜臣氏は中国における天下は一つが理想であるという思想は秦の時代に生まれたと指摘する。国土が大きく、人口も莫大で言葉も地域差が大きいゆえに、天下は一つであるべきだというナショナリズムが強くなることは歴史が証明している。確かに現在の中国の台湾への政策を見るにつけ、毛沢東と蒋介石の二人の関係や現在の世界情勢だけでは説明しきれない。人民の心の奥底に眠る中国観を分析していく必要があるだろう。

埼玉県知事

土屋埼玉県知事が当然のごとく辞任したが、この旧い土建屋体質にまみれた土屋王国の後を継ぐのは大変であろう。だが早くも自民党筋からは後継者として糸山英太郎氏の名前が挙がり始めている。彼のホームページを見るところ、今年の6月のコラムでは「私は今後の埼玉県の動向にはこれまで以上にきっちり目を光らせてゆくつもりだが、どうぞ善良で勤勉な埼玉県民の皆様も自らの良識に照らして勇気を持って立ち向かって頂きたい。もしそれでも万一またこのような破廉恥な独裁者が再選されかねない状況になれば、やむをえず私も第二の故郷である埼玉県のために身を挺してこれを阻止する覚悟はできている。」とやる気満々である。中曽根氏の秘書を努めて後、国政に出馬し、石原慎太郎氏とも「憂国の士」として仲が良いようだ。埼玉スタジアムに対する批判などまともなことも発言しているが、どうも「愛国心」をがなり立てる時代錯誤な経済観をお持ちのようだ。

今こそ日本人はナショナリズムに燃え、ソニー・JAL・三菱重工など日本の宝を守るために猛然と買いにいくべきなのだ。堪えきれずにあおぞら銀行を外資に売り渡そうとしている愛国心のかけらもない御仁も見受けるが、私に言わせれば問題外だ。日本の宝と言える企業が売られている様をただ見ているだけでは日本人とはいえない。2003年4月25日

『蓮如』

五木寛之『蓮如』(岩波新書 1994)を読む。
多分に小説的なタッチで蓮如を描いているが、その分実直な親鸞との対比が見えてきて楽しく読めた。この手の本にありがちな「ある個人を歴史を動かす巨大な司祭のように見なす」ことを作者はきっぱりと否定している。ものの本には蓮如の活躍のおかげで加賀の一向一揆が誕生したと書かれており、偉大な宗教家ひいては歴史上のヒーローを想像しがちである。しかしある一個人が歴史をつくったという思想はファシズム的な発想につながり危険であることは言うまでもない。五木氏も次のように述べる。

蓮如が北陸の地に渦巻く雑民のエネルギーに翻弄されたのだとは考えられないでしょうか。そこではスーパーマンのように見える蓮如も、一個のシンボルにすぎません。北陸の地底からまさに噴火しようとしていた地下のエネルギーが、近江から蓮如を招きよせ、そして蓮如を核として巨大な増殖がおこなわれ、疲労しつくした蓮如を破れた旗のように再び投げ返した、こういう想像は大胆すぎるでしょうか。
私にはどうしても一個人の力が一方的に歴史を創り出すとは思えないです。蓮如の権謀術策の実力を、私たちはあまりにも過大評価しすぎているのではないか。蓮如もまた時代の登場人物のひとりにすぎないのですから。

この本を読みながら浄土真宗の歴史的位置付けについて考えた。浄土真宗は別名「一向宗」とも呼ばれ、身分体制の序列を固定化する封建体制を覆す「過激」な思想である。しかしこの宗教は日本の思想史においてどのように位置づけられるのだろうか。適当な参考書を探してみようと思う。