月別アーカイブ: 2002年8月

自民党議員 野中広務

本日の東京新聞の特集で自民党議員野中広務の戦争に関するインタビュー記事が載っていた。最近は小泉首相の郵政改革に対する牽制役といったイメージでしか報道されないが、自民党内護憲派としてなかなかまっとうなことをいうと思った。少し長いが引用し紹介したい。

戦後日本が平和と民主主義得たというのは非常に大きかった。しかし、それが本当に健全にその道をたどってくることができたのかどうか常に考えていかなくてはならない。過去をおろそかにすれば未来はないのだと常に思いながら。戦争を知らない人にしたら「年取った人間が何をいつまでも過去をひきずっているのか」という気持ちもあるかと思う。しかし、多くの有能な人材があの戦争で亡くなったという過去を風化させてはならない。そのために私はかたくなだと言われても、頑固に生きていく。時にはブレーキを踏む勇気を失ってはならないという使命感のようなものを持っている。

日中関係でいろいろ言う人はいるが、わが国は中国本土に軍を進めたわけですよ。そのことを厳粛に考えて過去の歴史に忠実であってもらわないと。今の風潮は、自衛隊が海外に出ていかないことが自衛隊としての責任をまっとうできないような風潮があることを、私は恐いと思う。その意味で自衛隊が他国に軍事力を行使しないことが、むしろ自衛隊としての最高の誉れであると思ってほしい。

家族に思いを残しながら戦争に行った者と戦争を計画した者はきちっと仕分けされるべきだと思う。昭和53年にA級戦犯を祭って以来、昭和天皇はお参りになっていないとか。そういうことなどを考えると靖国の持つ問題とは、戦争に敗れた後に総括されていないことにつながる。A級戦犯が合祀されたことで戦争責任をあいまいにしてしまった。やはり大変な戦争の責任をきちっとしておくことは必要だと思う。そうでないとこのまま不幸な議論を引き継いでいくことになってしまうという切羽詰まった気持ちが私にはある。

われわれの少年時代は「欲しがりません勝つまでは」と、貧困に耐え、戦争遂行のためにすべてを犠牲にしてきた。今、われわれは衣食住はどうにか確保されている。やはり過去の中から今日があるということをよく考え、過去をおろそかにしないで将来に目を向けてほしいと痛切に思う.繰り返し言うが、過去に目をふさいだらいけない。

ちょうどドイツのヴァイツゼッカー大統領が言った言葉を思い出させる。彼自身の政治活動についてこれまで注目してこなかったが、彼のいう「切羽詰まった気持ち」がどのような行動につながっていくのか期待したい。

読書と豊かな人間性レポート

読書と豊かな人間性レポート

本日の東京新聞の朝刊の特集記事(裏面を参照)を紹介したい。この中で、東京新聞論説委員である塚田博康氏は戦争の反省に立って、そして学習そのものの根幹は読書にあり、読書によって物事を理解し、思考し、議論をすることの大切さを強調している。
確かに「子どもの読書活動の推進に関する法律」の制定に見られるように、学校教育現場では現在読書の意義が強調されている。司書教諭の必置など子どもに読書する機会を増やすための推進体制、広報活動、財政上の措置など確実に進んできている。
しかし、このような文科省による政策はしばしば現場の意向を越えて強制力を持って施行されてきたことを思い返す必要があるのではないか。例えば奉仕活動(ボランティア)の意義を生徒に強調することはいいことであるが、それが一度文科省の政策に乗った途端、内申書への記述事項になり、そして授業の単位に組み込まれ、最後には強制といった経緯をたどってきた。また同様に総合的学習時間や日の丸君が代、強制クラブ活動なども当初の思惑を大きく外れてしまった。
大切なことはまず何よりも現場の責任者である教員が読書を楽しむことではないか。授業も部活動も同様であるが、まず教員が楽しみ、そしてその楽しみを生徒に伝えてみたいという人間としての素直な感動が原点にならなければならない。そうした楽しみのないところで、いくら読書の利点が強調されたところで、真の「人格形成」にはつながらないであろう。
私自身夏休みに入り、2日に1冊は本を読んでおり、今読書の面白さを堪能している。現在は寝る前に田辺聖子訳の源氏物語の世界に浸っており、俗世の煩わしさを少しでも忘れることができる読書の時間が楽しい。2学期に入ったら授業の中で源氏のあわれの世界観に少しでも触れてみたい。

読書と豊かな人間性レポート

読書と豊かな人間性レポート
今日の授業を受けながら、私は何とはなしに、学生時分に卒業論文で研究した文学者中野重治のことを思い出していた。読書、思想、戦争……。
中野重治は戦前治安維持法容疑で、2年以上も獄中生活を強いられた作家である。その彼が刑務所から妻であるまさのに宛てた手紙の一部少々長いが引用したい。

いつだったか出来るだけ書物を読むようにということを書いたかと覚えている。読書ということは非常に大切なことだ。「自分は書物から学んだ」と言った作家や、「自分は美術館で会得した」といった偉い画家等もある。(中略)私はお前さんのしきりに読書することをのぞむが、しかしたくさん読んで少なく考えるよりは、少なく読んで多く考える方がいいと思う。ダーウィンの自叙伝の中で、「読んだり見たりしたことを、かつて考えたこと、また将来考えるであろうことに直接結びつけるようにし、このクセを五か年間の航海中続けた」という意味のことを書いていた。見聞したことを他のことに結びつけて考えるということ、これが中々よいことなのだ。このクセがつけば、たとえば何かの事務的な報告書を調べていて、それとは全く別種のことについてのステキな思いつきを思いついたり、どうしても分からなかったことがフイと何のゾーサもなく分かったりする(中略)そういう風に、本を読むなら読みなさい。

中野重治は獄中に入ってから超人なみの読書をこなした。そして当時の政府に都合の悪いことが隠ぺいされた新聞・雑誌の文章から、的確に真実を類推していった。獄中にいながらにして、当時の大政翼賛会下の新聞記事から戦争遂行へ向かう雰囲気、侵略戦争の枠組みについて分析を加えていた。つまり誰しもが理解出来る程度の文章の裏の裏まで読むことの重要性を説いたのだ。
坂本一郎氏の論文の中で、「包括的な生活指導」として多くの本の紹介がなされているが、しかしそれを消化するだけの指導で終わってしまってはいけないのではないか。
確かに今後有事の際情報統制がなされるにしても、過去の大戦のような統制が徹底するとは思えない。しかしいざというときの判断力は確保しておきたい。そのためには普段から多くの本に触れ、様々な情報を整理・分析し、まとめていく力を養う中で、それとは全く逆にわずかな情報から真実を掴んでいく想像力を培う指導が求められるのである。
文学者であり、熱心な読書家であった中野重治が、「少なく読んで多く考える」ということを強調した意味を今週ゆっくりと考えてみたい。

『YERROW CAB〜成田を飛び立った女たち』

家田荘子『YERROW CAB〜成田を飛び立った女たち』(恒友出版 1991)を読む。
日本を離れ、ニューヨークに出掛けた女性(イエローキャブ:「すぐ乗せる」「誰でも乗せる」というタクシーが由来)のドラッグやセックス漬けの淫乱な生活を暴露的に描いたルポルタージュである。内容的にはあまり面白くなかった。しかし東京は人間関係のしがらみに縛られており、自分の可能性を試すにはニューヨークしかないというインタビューを受けた女性の動機には考えるものがあった。住基ネットが定着し、今後ますます「外れた」生き方がしにくい世の中になったとき、アメリカにはーその大部分が幻想であるにせよーますますの期待が向けられるのだろう。

フセイン大統領のテレビ演説

本日の東京新聞で紹介されていた、フセイン大統領のテレビ演説の一言が、「前後の文脈は抜きにすると」正論を貫いていて格好良かった。
イラン・イラク戦争終結記念日における演説で、彼は次の言葉で米国の姿勢を警告したそうだ。ただ、原文を探したが見つからないので、正確な意図は不明である。

脅しで民衆を奴隷にしたがるごう慢な乱暴者が、自分の国の人々の平穏を望んでいるのなら、国際法に基づいた対等な対話によって他の国の人々を尊重しなければならない

話は変わるが、ここ数年のフセイン大統領による対アメリカ外交政策はかなりの部分でうまくいっていると思う。あれほどの侵略戦争を仕掛けておきながら、今回もアラブやヨーロッパの支持を十分に取り付けている。今後何度も国際政治の舞台に出てくる政治家であろう。残念なのは、日本におけるサダムフセイン像があまりにアメリカ寄りの「悪の大将軍」というイメージに固定化されていることだ。別にサダムフセインをかばうつもりはないが、ステレオタイプなイラクの国家像から早く脱しないと、中東を見る判断力を誤るであろう。