〈社会福祉援助技術論3〉

 この論においては,渋谷周辺地域で野宿生活を送る人びと(ホームレス)の命と生活を支える活動を行なっている野宿当事者と支援者による民間NGOグループ”のじれん”という団体をとりあげてみたい。のじれんは今年で結成されて9年になり,正式名称は「渋谷・野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合」という。300名以上の野宿者が現在も渋谷や代々木公園で生活しており,野宿者同士の連携と生活基盤の確保を目的に設立された団体である。

 バブル崩壊後,特に建設業界で大幅なリストラが実施され,建設業界に従事していた「使いやすく切りやすい」ブルーカラーの労働者が都市部に押し出され,テントや段ボールでの野宿生活を余儀なくされるようになった。しかし,野宿者は「怠け者」や「好きで野宿している」とのレッテルを貼られ,心無い若者による虐待も相次ぎ,命の保障すらない状況である。最近では公園の再整備という名のもとで行政による暴力的なテント排除も行われている。

 当初は学生やキリスト教者のボランティアが食事や健康面での援助活動を行なっていた。しかし,ボランティアによる支援は「援助する側」と「援助される側」が明確に分断されてしまい,一方的に善意を与える関係が作られ,野宿者同士の連携を築き上げていくところまで至らなかった。
特に公園内でテントを張って生活する野宿者は行政との応対や不審者への対応,「えさ場」の確保など,生活の場を同じくするものが生活直結の課題に向けて団結していく必要がある。

 のじれんでは一人では難しい炊事や警備,福祉行政に対する働きかけや就労の確保に共同して取り組んでいる。最近では野宿者自身が仕事を分担し動いているので,支援者は何もすることがないとぼやく程である。

 しかし,近年は東京都は「地域生活移行支援事業」として野宿者に対して,家賃3000円でアパートを提供し,さらに6ヶ月間の就労を保障する施策を始めた。これまで何ら対策を取ってこなかった経緯を考えると行政が動いたという一定の評価はできる。しかし,その対象は公園でのテント生活者のみであり,仕事の保障はわずか6ヶ月しかなく,その後はまた路上生活を強いられる可能性が高く,近視眼的な見通ししか立たないものである。また,受け入れ体制の確立と引き換えに東京都は公園整備を掲げ,野宿者のテントの一斉撤去も行なっている。「自立支援」という福祉政策のもとに個々の野宿者の間に格差を設け,一定のラインに達しないものは徹底して切り捨てていく容赦のないものだとも言える。

 「市民」という枠から外されてしまい福祉の手が伸びにくい野宿者問題の解決にあたっては,「支援—被支援」の関係を脱し,同じ仲間としての団結力を高めるような当事者組織が求められるのである。

 参考文献
 渋谷・野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合(のじれん)「のじれんアップデート」(http://www.geocities.jp/nojirenjp/)2006年3月20日取得

〈障害者福祉論1〉

 「完全参加と平等」をスローガンとする1981年の国際障害者年と,続く83〜92年の「国連・障害者の十年」によって障害をもつ人たちへの差別をなくしていく活動が世界的に進められた。日本では,「心身障害の発生予防」や「保護」を目的とした「心身障害者対策基本法」が改定され,「すべて障害者は,個人の尊厳が重んぜられ,社会を構成する一員として社会・経済・文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会」を保障し,「障害者の自立及び社会参加の支援」というノーマルな社会のあり方を指し示した障害者基本法が策定されるに至った。
 施策の策定にあたっては,障害者の年齢や実態に応じて,「障害者の自主性が十分に尊重され,地域において自立した日常生活を営む」ことへの配慮を求めている。施設・在宅を問わず,障害のある人の生命,生活,生涯にわたるQOLの質の向上のため,医療・福祉の分野に止まらず,教育や雇用・就業,所得保障,生活環境の改善,専門職の養成に至るまで,多岐にわたる施策が体系化されている。
 また,国民全員が障害者についての正しい理解を持ち,「社会連帯の理念」に基づき協力し,さらに,障害を理由とした差別や権利利益を侵害する行為を禁止することを定めている。
 こうした障害者の福祉や障害の予防を総合的かつ計画的に推進するため,政府・都道府県・市町村に「障害者基本計画」を策定する義務を課している。これを踏まえて2002年に閣議決定された基本計画では,ノーマライゼーション及びリハビリテーションの理念に則り,国民誰もが相互に人格と個性を尊重し支えあう「共生社会」の考えが打ち出されている。また,基本計画における重点的な施策と達成目標を定めた「新障害者プラン」も同時に決定され,基本法の理念が具体的な数値目標として具現化されている。
 基本法では更に,教育における障害のある児童・生徒と障害のない児童・生徒の交流及び共同学習を積極的に進めることにより,その相互理解を促進する旨が2004年の改定で追加された。障害のある児童生徒との交流の機会やボランティア活動を通じて,豊かな人間性や社会性を培うことを明記した1998年告示の学習指導要領の指針を,改めて行政側に突きつけている。また,同じく,障害者の地域における作業活動の場及び障害者の職業訓練のための施設の拡充を図るため,費用の助成や必要な施策を講じる旨が追加された。
 これら教育や施設の監督にあたる都道府県や市町村に対しては,基本計画の策定が努力義務から義務へと改定された。2007年の策定実施に向け,各市町村で様々な取り組みが模索され,実質的な効果があがることが期待される。

〈医学1〉

 主な生活習慣病には高血圧症,糖尿病,高脂質血症,通風,骨粗鬆症の5つがあるが,そのうちの4つは肥満と深い関わりがある。
 病気や障害の予防には健康増進による発病そのものの予防,早期発見,早期治療による合併症進行の予防,そしてリハビリテーションによる心身の障害や機能の維持,回復という3つの段階があるが,生活習慣病は毎日の生活の中で健康増進を図ることによって発病を未然に防ぐことが大切である。
 一般に肥満度が上昇すると,摂取栄養の約50%を占める炭水化物の代謝を制御するホルモンであるインシュリンの活動が低下(インシュリン抵抗性)する。そのため体内で過度にインシュリンが産生されるようになって,癌細胞の増殖の原因ともなる。さらに老化や肥満が進みインシュリンが産生できなくなると,糖尿病になってしまう
 生活習慣病につながる肥満の予防策として「一無、二少、三多」の心がけが重要である。
 「一無」とは禁煙である。喫煙は肺がんの危険因子であるばかりでなく、血管を収縮させて血圧を上昇させたり、活性酸素を発生させて悪玉コレステロールの酸化を促し、動脈硬化を促進させる。
 「二少」とは小食,少酒のことである。過度な食事や飲酒は生活習慣病の直接の原因となっている。その予防として,まず第一に,摂取栄養については肉の脂やバター,スナック菓子などの動物性脂肪に多く含まれている飽和脂肪酸の摂取を減らし,イワシ、サバなど青身魚や、オリーブ油、サラダ油などの植物性脂肪に多く含まれている不飽和脂肪酸をなるべくたくさん摂取することである。飽和脂肪酸を多く摂り過ぎると、血液の粘度が高くなって、血が流れにくくなり、やがて動脈壁に脂肪やコレステロールが沈着、血中コレステロールの濃度が上がり、動脈硬化を引き起こす原因になる。そして、心臓病などの危険が高まる。
 そして,第二には野菜や果物の種類を豊富に摂ることである。野菜・果物には,カロテノイド,葉酸,ビタミンC,フラボノイド,フィトエストロゲン,イソチオシアネート,食物繊維などが多く含まれる。特にごぼうや小豆に多く含まれる食物繊維にはコレステロール値の低下や血圧上昇を抑制する機能がある。さらに,便通を促すことで腎肝機能の強化も図ることができる。
 最後の「三多」とは多動と多休、多接のことである。特に多動が大切で,有酸素運動といわれる酸素を活発に取り込んで行う,ジョギングやサイクリング,早歩き,水泳,エアロビクスなどの定期的な運動が効果的である。その結果,軽症の糖尿病や軽度の肥満者の血糖値やインシュリンの抵抗性を是正することや,カルシウム摂取量を併用することによる骨塩量の改善効果が期待できる。また適度な休養と友人との交際はストレスを和らげ,インシュリンの過分泌を抑える効果がある。

 参考文献
 高橋龍太郎「なぜ中年の肥満は悪いのか」『図解 老化のことを正しく知る本』 中経出版,2000年

『手のうごきと脳のはたらき』

つい先日子どもが妻の実家より戻ってきて、家族3人の奮闘が始まった。わずか4キロ弱の乳児のむずかる声に一日中振り回されている。。。眠い、ねむい、nemui iiiiiiiiii、、、iiiiiii iiiii、、、、、、、、 、、、、、、。。。。

香原志勢『手のうごきと脳のはたらき』(築地書館 1980)を読む。
埼玉県深谷市でさくら保育園を運営する斎藤公子さんの主催した市民大学での著者の講演がまとめられている。香原氏は人類学を専攻しており、カントの「手は外部の脳である」という言葉を引用しながら、生物の進化はイコール手の進化であり、猿は手を器用に使うことで他の哺乳類以上に環境への適応能力を高めたし、ヒトは猿以上に手を繊細に用いることができ、大きく文明を発展させてきたと述べる。そして、特に幼児期においては○×式の頭の訓練をするよりも、紐を結んだり、ナイフを用いたりするなど手指の訓練をすることが大切だという。斎藤氏は次のように述べ、幼児教育の基本を示している。いたずらな早期教育の罠に惑わされず、子どもの遊びを大切にしていきたいと思う。

子どもたちの「手」を使っての水遊び、砂・泥の遊び、粘土・紙を使っての遊び、絵を描く、木を切る、ひもを結ぶ、糸をあむ、糸で縫う、まりやボールで遊ぶ、木登りをするなどは、すべて昔から子どもたちに伝えられてきたものである。もちろん土運び、庭掃除、床のふき掃除、動物の飼育、畑づくりなどの労働も、ここ2、30年まえまでは多くの子どもたちにとって、毎日当然のこととして、させられていた家庭内労働でもある。こうした遊びや労働が、じゅうぶんに子どもたちに保証してやれるかどうかが、子どもたちを健全に発達させてやれるかどうか、につながってゆくのである。
(私たちの園の教育は)一貫して、人間の歴史が教えてくれている「労働が人間をつくった」という事実から学び、まず、「手」と「足」、「体」をつくることに専念している、といってよい毎日のつみかさねなのである。

『歴史教育はこれでいいのか』

高橋史朗『歴史教育はこれでいいのか』(東洋経済 1997)を読む。
「新しい歴史教科書をつくる会」の役員だけあって、教科書のように非常に分かりやすい文章の構成には好感が持てる。高橋氏自身の教育哲学は彼自身の次の言葉に端的にまとめられるであろう。

近代合理思想は、善と悪、正と誤など非常に厳密な二分法論理に立脚するが、社会適応か自己実現か、系統学習か経験学習かなどの教育行為の両極性をこのような二分法論理に立って二者択一に捉える旧パラダイムから脱却して、お互いを活かし合い、補い合う相互補完関係として包括的に捉えるホリスティックな新パラダイムへの転換が求められている。文化の継承と創造を生き方の視点から捉え直し、伝統を創造的観点から再発見し、生きる力・自己実現の基礎力として再生させる必要がある。

そして、歴史教育においても左右の善玉・悪玉史観を乗り越えて、「東京裁判史観」を見直し、真に自由な教育論争が求められると述べる。歴史教育について著者は次のように述べる。

歴史教育はどうあるべきか。古代史の始まりに、考古学的事実と並べて、それとは別に、神話や古代歌謡の世界をもう一つの歴史として子供たちに教える必要がある。歴史は神話でもなければ科学でもない。神話は古代世界の科学であり、科学は近代世界の神話にすぎない。
(中略)歴史は科学であるよりも、むしろ文学に境を接している。歴史教育を社会経済史の奴婢にせず、人間のドラマとして自己回復させる必要がある。つまり歴史教育には物語性が回復されなければならない。

私自身は著者の上記に意見の骨子には賛成だ。現在の歴史教科書や参考書は史的事実の列記のみで、その中で動いてきた人間に焦点が当てられていない。しかし、その人間ドラマはあくまで民衆のドラマであり、私たちが学ぶべきものは、民衆の中で語り継がれてきた民話ドラマである。そこにこそ社会の底辺で暮らし、社会を支えてきた人間の汗臭い匂いが詰まっている。「新しい歴史教科書」で採り上げられているような日本武尊の神話や二宮尊徳の活躍が日本の土地の歴史を象徴していると著者が考えているとしたら、それは明らかに歴史を歪曲している。

著者自身は上記のような歴史観に基づいた教科書のあり方について次のように述べている。

もとより教科書は執筆者自らの独創的な史観や斬新な学説を開陳する場であってはならず、深い「教育的配慮」に基づいて書かれなければならないことはいうまでもないことである。しかし、だからといって検定によって教科書の個性を奪い、思想に介入してもよいということにはならない。子どもたちが「歴史嫌い」になるのはこのような没個性的な、入試に必要な最小限の「死せる知識」を詰め込んだ教科書で教えられているからである。

これまた、著者の主張の中身は正しい。おそらくは家永三郎の主張とも大きく重なるところであろう。高橋氏の主張の中身がそのまま彼に対する批判の論拠となっているのが何とも不思議である。とはいえ、読みやすい文章とも相俟って彼の意見自体は興味深いところはある。
問題は彼を県の教育委員に選定する上田知事の思想であろう。最近埼玉県でも行き過ぎたジェンダーフリーに対する警告めいた文章が流れているが、石原都知事の後追いに懸命な上田知事の政策の顕れであろうか。