芸術のフランス語からビジネスの英語へ

今朝の東京新聞に、EUの首脳会談で、フランス人のセリエール欧州産業連盟会長が演説の途中で「ビジネス用の言葉にする」とフランス語から英語に切り替えた途端に、仏シラク大統領と外相が会議を中座したとの報道が載っていた。小さい記事を読む限りの判断だが、恐らくはフランス国内向けのパフォーマンスであろうが、あくまで自国語にこだわるというシラク大統領の姿勢は評価できる。
フランス語を話せるということは合理的理性的な「近代」的素養をもった人間の証であり、フランス語の前では民族や宗教、地域といった「前近代」的なイデオロギーは無力化されてきたという歴史がある。言語ナショナリズムが他者の排斥ではなく、他民族の受け入れを促してきた側面がある。
日本でも戦前のようなアジア諸国に対する不健全な言語政策ではなく、いい意味で移民問題を解決できる言語のあり方を考えていきたい。

『野村克也 カニの念仏集』

永谷脩『野村克也 カニの念仏集』(ポケットブック社 1993)を読む。
通勤の途中で毎朝必ずTBSラジオの「森本毅郎スタンバイ!」という番組を聞いている。番組中毎週月曜日にスポーツコラムを担当する、少しかすれた声の永谷さんが気になって手に取ってみた。
スポーツ担当というと、選手の派手な活躍やチームの勢いを後追いすることに終始することが多いが、永谷さんは地道な取材を重ね、練習中の選手の不安や緊張、試合後の監督の心境など映像になりにくいスポーツの側面をマイクを通して伝えてくれる。過日のWBCで日本の準決勝進出が掛かったアメリカ―メキシコ戦でも、肝心の試合の中身ではなく、試合の最中に中華料理屋で昼食をとっていた内心ドキドキの王監督の一挙一動を詳細にレポートしていた。スポーツは最終的には人間ドラマであるので、こうした報道によって選手監督の人間性に直に触れることができる。
この野村監督に関する本でも、野村采配に関する技術論ではなく、野村監督のぼやきをとりあげ、野村監督に内面に迫っている。スポーツ選手たるもの、チームの中で自分を活かすには、常に他人のことに気を遣うだけの余裕が大切だという持論を展開する野村監督の人柄がよく伝わってくる。選手一人一人の個性や技量に応じて指導方法を変えていく野村監督の野球論の根底には次のような野球哲学が潜んでいる。

すべてのものは無にはじまり、無にもどると言うじゃないか。野球は雑多な要素がいっぱいあるわけで、打席に立ったときに、より無駄なものをなくすために、素直な気持ちで無にかえれるために、ミーティングをやるのだ。野球はむずかしいものだということを教えるためにやっているのではない。

□ 森本毅郎・スタンバイ! | 出演者紹介:永谷脩 □

社事大レポート

社事大の第3期のレポートを今日まとめ終えることができた。前回は締め切りぎりぎり午後11時半に郵便局に駆けつけたのだが、今回はゆとりをもって書き上げて提出することができた。第4期も早めに仕上げたいものだ。

〈法学〉再提出

 法律上の婚姻をした夫婦の間に生まれた子を嫡出子,法律上の婚姻届をしていない男女の間に生まれた子を非嫡出子という。憲法14条において法の下の平等が定められているにも関わらず,民法900条4号但書前段では,非嫡出子の法定相続分につき、嫡出子の2分の1として,嫡出でない子を差別している。これは明治民法1004条を踏襲したもので,本来は家制度の継承を狙いとしたものであった。

 この差別的法規定に対する反対の声は年を経るごとに大きくなり,1971年には法務省法制審議会では相続法が審議され、非嫡出子の相続分につき賛否両論を併記し、更に検討をするとの中間報告が公表された。次いで,1979年に日本が批准した国際人権規約のうちB規約第24条1項では、「すべての児童は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、国民的もしくは社会的出身、財産又は出生によるいかなる差別もなしに、未成年者としての地位に必要とされる保護の措置であって家族、社会及び国による措置についてのすべての権利を有する」と明確に規定されている。

 1995年7月に最高裁において,民法900条4号の但書前段の合憲性に対する判決が下された。多数意見は「法の下の平等に関する憲法14条1項は,合理的理由のない差別を禁止する趣旨である」「法律婚主義のもとで嫡出子を尊重するとともに,認知された非嫡出子にも配慮して相続分を認め,法律婚主義の尊重と認知された非嫡出子の保護のバランスを調整したもので,合理的な根拠がある」として合憲とした。但し,15人の裁判官中,5人が反対意見を述べ,賛成意見中4人の裁判官が立法による解決が望ましいとする補足意見を述べ,裁判官の間でも意見は分かれた。

 反対意見としては「多数意見は認知された非嫡出子が婚姻家族に含まれないという属性を重視し,そこに区別の根拠を求めるものであって,相続において個人の尊厳を立法上の原則とする憲法24条2項の趣旨に反する」「出生について責任がなく,その意志や努力によって変えることのできない非嫡出子という身分を理由に法律上差別することは,法律婚主義の尊重という立法目的の枠を超えている」「非嫡出子を嫡出子よりも劣るとする観念が社会的に受容される素地をつくる重要な要因であって,今日の社会状況に適合せず合理性がない」などの主張がなされた。

 私は民法900条4号但書前段は違憲だと考える。94年に日本も批准した子どもの権利条約では子どもの社会的出身や出生によるあらゆる種類の差別を禁止しており,この条約に抵触する民法900条4号但書の早急な改正が求められる。現民法の規定は一夫一婦制の法律婚主義を保護し,子どものは親の専有物であるかのような古い家族観を前提としている。子どもに生まれながらに格付けを与えることは,シングルマザーや事実婚などの新しい家族像を社会が受け入れるにあたって大きな阻害要因となる。

参考文献

1995年7月5日最高裁判決 判例タイムズ885号83頁
2003年3月28日最高裁判決 判例時報1820号62頁
2004年10月14日最高裁判決 判例時報1884号40頁 法学教室2004年12月291号136頁
東京弁護士会意見書「非嫡出子の相続分差別撤廃に関する意見書—民法900条4号但書改正案—」1991年3月7日

〈社会福祉援助技術演習3〉

 アイマスクウォークとインスタントシニアの2つの障害疑似体験を通して改めて障害者や高齢者と同じ視点に立つことの難しさを知った。言い換えれば,私たちがいかに日常生活のほぼ全てを視覚や聴覚だけに頼って行動していたかという実態が見えてきた。アイマスクウォークでは,前後左右も分からないのに,支援者より「あと○○cm」「もう少し左」と声を掛けられて困惑するだけであった。また,インスタントシニアでは視野狭窄により自分の目で自分の足元すら確かめることができずに立ちすくんでしまった。

 しかし,そのような五里霧中の状況の中で触覚の確かさを実感した。コピー機に触れてみると,液晶の操作パネルは何が表示されているのか皆目検討がつかないが,スタートボタンや数字キーはボタンの中心が窪んでいたりポッチがついていたりしてすぐに扱うことができた。また,トイレや階段では手すりの曲がり具合で周囲の位置を把握することができた。さらに,屋外に出ると足元の地面の形状で立っている場所が分かり,また,皮膚感覚を通して太陽の位置や風の吹く向きなどが分かり,前後左右の方向感覚をもつことができた。

 確かに,人間の得る情報の9割は視聴覚に依拠しており,視聴覚は瞬時に多様な情報を分析することができるが,残りの1割に過ぎない触覚や嗅覚,味覚をフル活用することで,これまでとは違った世界が広がっていくことを実感できた。シニアウォークで感じたことだが,自由が利かない体ゆえに,腰に重心を乗せて顎を引き,体幹部を真っ直ぐにして正しい歩行姿勢を意識するようになった。また,視覚が制限されることで周囲の人の声色や息遣いがリアルに伝わってきた。

 私たちは障害者や高齢者を身体の機能が健常者よりも劣った存在であるとの前提で支援をしがちである。しかし,手足の指先感覚や視聴覚にのみ依拠している私たちよりも,障害者や健常者のほうが実は体機能をうまく使えているのではないだろうか。支援の側に回る私たちこそが触覚や体全体のバランスなどに日常気付きにくい感覚に敏感になり,支援される側の感覚を共有することが,今後の福祉援助技術に求められる。

 京都大学霊長類研究所教授の正高氏は,障害者と健常者のありかたを次のように述べる。
「今日では唯一,個性的な身体とのつき合いができているのが,実に障害者と呼ばれる人々なのである。健常者が身体を画一的に用いて,浅薄に生活しているのに対して,障害者の方が個々人の背負っている障害の質が,各々個性的な分,健常者では埋もれてしまっている可能性を,個性的に活用して生きているように思えてならないのだ。障害者が健常者よりも劣っているなど,とんでもない誤った考え方といえるだろう。障害を持つ人に生き方を学ぶ,障害者学というものが何より求められている。」

 参考文献
 正高信男『赤ちゃん誕生の科学』 PHP新書,1997