『歴史教育はこれでいいのか』

高橋史朗『歴史教育はこれでいいのか』(東洋経済 1997)を読む。
「新しい歴史教科書をつくる会」の役員だけあって、教科書のように非常に分かりやすい文章の構成には好感が持てる。高橋氏自身の教育哲学は彼自身の次の言葉に端的にまとめられるであろう。

近代合理思想は、善と悪、正と誤など非常に厳密な二分法論理に立脚するが、社会適応か自己実現か、系統学習か経験学習かなどの教育行為の両極性をこのような二分法論理に立って二者択一に捉える旧パラダイムから脱却して、お互いを活かし合い、補い合う相互補完関係として包括的に捉えるホリスティックな新パラダイムへの転換が求められている。文化の継承と創造を生き方の視点から捉え直し、伝統を創造的観点から再発見し、生きる力・自己実現の基礎力として再生させる必要がある。

そして、歴史教育においても左右の善玉・悪玉史観を乗り越えて、「東京裁判史観」を見直し、真に自由な教育論争が求められると述べる。歴史教育について著者は次のように述べる。

歴史教育はどうあるべきか。古代史の始まりに、考古学的事実と並べて、それとは別に、神話や古代歌謡の世界をもう一つの歴史として子供たちに教える必要がある。歴史は神話でもなければ科学でもない。神話は古代世界の科学であり、科学は近代世界の神話にすぎない。
(中略)歴史は科学であるよりも、むしろ文学に境を接している。歴史教育を社会経済史の奴婢にせず、人間のドラマとして自己回復させる必要がある。つまり歴史教育には物語性が回復されなければならない。

私自身は著者の上記に意見の骨子には賛成だ。現在の歴史教科書や参考書は史的事実の列記のみで、その中で動いてきた人間に焦点が当てられていない。しかし、その人間ドラマはあくまで民衆のドラマであり、私たちが学ぶべきものは、民衆の中で語り継がれてきた民話ドラマである。そこにこそ社会の底辺で暮らし、社会を支えてきた人間の汗臭い匂いが詰まっている。「新しい歴史教科書」で採り上げられているような日本武尊の神話や二宮尊徳の活躍が日本の土地の歴史を象徴していると著者が考えているとしたら、それは明らかに歴史を歪曲している。

著者自身は上記のような歴史観に基づいた教科書のあり方について次のように述べている。

もとより教科書は執筆者自らの独創的な史観や斬新な学説を開陳する場であってはならず、深い「教育的配慮」に基づいて書かれなければならないことはいうまでもないことである。しかし、だからといって検定によって教科書の個性を奪い、思想に介入してもよいということにはならない。子どもたちが「歴史嫌い」になるのはこのような没個性的な、入試に必要な最小限の「死せる知識」を詰め込んだ教科書で教えられているからである。

これまた、著者の主張の中身は正しい。おそらくは家永三郎の主張とも大きく重なるところであろう。高橋氏の主張の中身がそのまま彼に対する批判の論拠となっているのが何とも不思議である。とはいえ、読みやすい文章とも相俟って彼の意見自体は興味深いところはある。
問題は彼を県の教育委員に選定する上田知事の思想であろう。最近埼玉県でも行き過ぎたジェンダーフリーに対する警告めいた文章が流れているが、石原都知事の後追いに懸命な上田知事の政策の顕れであろうか。

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