『世界の特殊教育〔改訂版〕』

石部元雄・溝上脩『世界の特殊教育〔改訂版〕』(福村出版 1982)を読む。
是非これから特殊教育に携わる人たちに読んでほしい本であった。20年以上前の内容ではあるが、アメリカ、イギリス、フランス、旧西ドイツ、東欧、北欧、旧ソ連、そして日本の特殊教育の当時の現状と課題が詳細にレポートされている。特に特殊教育の「特殊」や「障害」という概念が、各国の文化の違いで大きく異なる点が興味深かった。日本でも文科省のお偉いさんがさも自分たちが考案したように特別支援教育への転換を喧伝しているが、その中身はアメリカやイギリス、フランスの特殊教育の後追いに過ぎないということが分かった。

日本では特殊教育の対象者は学校教育法で「盲者(強度の弱視者を含む。以下同じ。)、聾者(強度の難聴者を含む。以下同じ。)又は知的障害者、肢体不自由者若しくは病弱者」(第71条)と規定され、普通教育についていけない障害者のみを対象としている。しかし、アメリカでは、「それぞれの子どもたちが固有に持っている援助の要求(needs)、そのような子どもの教育のために特別に訓練された教師、特別に計画された教育内容や教具、特別につくられた諸施設等こそが特殊教育たらしめて」おり、普通教育では物足りない英才児教育も含まれるという。日本では、エリート教育と障害児教育は水と油のように捉えがちだが、どちらも「一人ひとりの子どもの教育の必要性に注意が向けられ」、子どもたち一人ひとりに応じた教育プログラムを用意するという点では同じ発想の土台に立っているのである。

また、フランスでは家庭環境の欠如や愛情の欠如、また極度の経済的貧困などによって社会に対する拒否的態度を持った「社会的障害児」をも特殊教育の範疇に含めているそうだ。フランスという国柄が表れていて興味深い。また旧ソ連では、労働そのものが人間を発達させたというエンゲルスやマルクスの学説に立ち、特殊学校においても障害の度合いに応じて、生活や労働に参加させる職業訓練プログラムを組んでいたということだ。日本では北欧における社会福祉政策が共生の理念を先取りしているともてはやされているが、旧東欧圏や旧ソ連などの共産主義国家における特殊教育を学ぶ意義は大きいと思う。

日本に限らずどこの国でも、健常児と障害児が一緒に学ぶ統合教育の実践は大きな課題のようである。障害児を普通教育に従わせようとしたり、障害児の学習リズムによって健常児が迷惑を被ったり、安易な統合がかえって差別的な考えを子どもたちに植え付けてしまったりと功罪両面からの検討が必要であり、今もって結論の出ない永遠の課題である。

現在も横国で教鞭を執っている高山佳子さんの以下の当時の日本の特殊教育に対する認識と課題設定は、まさに20数年経って文科省が音頭をとって進める特別支援教育の内容そのものである。彼女の見通しが鋭かったのか、行政機関の対応が遅かったのか、白黒はっきりと判定することは容易でないが一読の価値はある。

障害児の後期中等教育はもはや準義務教育の観さえある今日、その教育目標や内容は大きな転換を迫られている。たとえば、従来の後期中等教育の大きな柱であった職業的自立といった目標はもはや多くの者に望めそうになくなってきている。というのは、高等部を卒業した段階において、一般就労が困難な者が確実に増加しており、全員就学に伴いこの傾向はいっそう強まることが予想されるからである。一般就労はもとより授産施設や更生援護施設などにも入所できず、卒業後在宅というケースも少なくない。
このように障害児の後期中等教育は、卒業後の進路問題と密接なかかわりをもっているだけに、労働および福祉的観点との関連ですすめられなければならない。
就学前から義務教育を経て後期中等教育に至る障害児の教育を広い視野からとらえ直し、文部、厚生、労働等関連諸機関の有機的な連携のもとに総合的な行政施策を打ち出すべき時期にきているように思われる。
(中略)障害児の”統合”の問題が、学校教育における交流だけにとどまるのではなく、社会的統合ヘと発展していくためには、障害者の労働と生活を保障していくことが鍵である。障害者の就労問題が深刻さを増している中で、生産性の低い障害者にも労働を保障していくということは非常にむずかしい課題である。おそらくはそれが可能となるためには、福祉作業所や授産施設における労働的な作業活動を、保護就労あるいは福祉的就労と規定し、一般就学と連続するものとして労働の範疇に含めていくという就労の概念の拡大が必要となってくるであろう。また、最近では、障害者の生活の場として、従来の施設収容から家庭へという動きがある。これは、重度・重複化に伴う障害者の在宅措置から一歩すすんで、障害者を地域社会に積極的に位置づけていこうという観点から、在宅の意義を改めて見直そうということである。
将来の方向として、今後ますます障害者の社会参加が志向されていくと考えられるが、その推進のためには、乳幼児期の療育から学校教育を経、卒業後の就労と社会生活に至る彼らのライフ・サイクルを、彼らが本来主体的に生活すべき地域社会の問題として把握していくことが大切になっていくであろう。

「自由」とは

本日の東京新聞の社説は、まさに東京新聞の良心を象徴するような内容であった。何度も繰り返し論じられてきた教科書的な「自由」論ではあるが、「自由」を濫用し強者の「自由」ばかりを正当化する小泉政権に対して厳しい批判を投げつけている。

週のはじめに考える“自由”を問い直す

権力者の思うままを許さないことが憲法の役割です。強い者と弱い者の共存を目指すのが真の自由社会です。小泉流の憲法観には“異議あり”です。「自由」について考えさせられることが続きます。まず最初に、中国などの反発を招いた小泉純一郎首相の靖国神社参拝とムハンマドの風刺画の報道を取り上げましょう。首相は「小泉純一郎も一人の人間だ。心の問題、精神の自由を侵してはならないことは憲法でも認められている」と言い、イスラム文化を見下した問題の風刺漫画を掲載したメディアの関係者は「表現の自由」を唱えます。

■押しつぶされる“心”
どちらも他人の心の内を理解しようとせず、自分の気持ちのままに振る舞う権利を主張する点が似ています。強者、優位にある者のごう慢さを感じます。不思議なのは小泉首相が日の丸、君が代の強制に何も言わないことです。入学式や卒業式で「日の丸掲揚に起立できない」「君が代を歌えない」という先生が処分され、「心の自由」が押しつぶされています。反戦の落書きをしたりビラを配ったりした人が逮捕されています。「こころ」を重視するのなら、これらのことに何らかの言及があってしかるべきでしょう。
そこで「自由」について基本から考えます。一般の国民と同じように内閣総理大臣にも心の自由があり、自分の心に従って行動してもよい。これが首相の展開する論理です。しかし、国王の権力を法の力で制限しようとしたのが近代憲法の淵源(えんげん)です。憲法が保障しているのは「権力からの自由」であり、権力者の自由ではありません。それは政府や権力者を規制する原理です。権力者を縛る憲法を、首相という最高権力者にかかる制約をはねのけるために持ち出すのは矛盾です。

■内心に踏み込む法規範
日の丸、君が代の強制に続いて、国民の内心を管理しようとする動きもあります。国民に「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支える責務」(自民党の新憲法草案)を押しつけ、教育基本法改正で子どもに愛国心を植え付けようとする人たちがいます。法規範で人間の「こころ」の在り方にまで踏み込み、特定の方向へ引っ張っていくのは、立憲主義の考え方とは正反対です。「およそ立憲の政において君主は人民の良心に干渉せず」−百年以上も前の政治家、井上毅がずばり言い切りました。小泉構造改革の柱、規制緩和や市場原理の基本である自由競争に関しても疑問が浮かびます。経済活動における自由とは、役所や役人からあれこれ細かな指図を受けないで、当事者同士の合意に基づいて取引や契約ができる状態をさします。これも「権力からの自由」であって、強い者が思うままに振る舞う自由ではありません。フランス人権宣言第四条には「自由とは他人を害しない範囲で自分の権利を行使できること」とありますが、日本の現実は「強者がより強くなる権利」になっていませんか。
例えば、雇用規制緩和、働き方の多様化など美辞麗句のもとパート、派遣、契約、業務請負など企業側の労働力コストを引き下げる雇用形態が広がりました。その陰で、大部分のごく普通の労働者は企業の支配的地位の前に不利な条件でも労働を余儀なくされています。国税庁調査による民間企業労働者の平均給与は七年連続で減少しています。参入が自由化されたタクシー業界では、運転手の年収が十五年前の30%減です。平均が生活保護基準を超えているのはわずか十都県、家族を抱えて二百万円以下の人もいます。それでいて車両を増やし、収入を確保している会社が多いのです。市場原理とは強い者だけが生き残る「ジャングルの自由」のことなのでしょうか。「規制緩和」や「構造改革」「市場原理」などのかけ声に金縛りになったかのような日本社会は、小泉改革を批判的に論じるには勇気を要する雰囲気に支配されています。でも、小泉内閣の強引な手法に懐疑の目を向ける人がやっと最近になって増えました。現実を無視できなくなったのです。
映画「白バラの祈り」が全国各地で上映され、静かに、しかし着実に観客を集めています。一九四三年のドイツで、ナチズムに抵抗する運動をした若者が逮捕され処刑されるまでの五日間の実話です。

■良心圧した追随、迎合
映画のテーマは、事実を直視し、心の命ずるままにナチに反対した若者の良心だけではありません。ヒトラーに忠勤を励む政治家や官僚、権力者に追随、迎合する民衆など、当時のドイツ社会を映しています。時代は違いますが、何となく類似性を感じさせる日本の現状に対する不安が、人々に映画館へ足を運ばせるのではないでしょうか。

新年度・新生活に向けて

いよいよ新年度になった。一年間の養護学校での手探りの経験を踏まえて、さらに生徒にとって興味あふれる授業を展開したいものだ。生徒一人一人の個性を勘案しながら厳しく接することができる教員を目指していきたい。また、単に点数を伸ばすだけの学習ではなく、言語世界が織りなす世界の魅力でもって生徒を惹きつけてやまない本格派の授業を模索していきたい。

『m2われらの時代に』

宮台真司・宮崎哲哉『m2われらの時代に』(朝日新聞社 2002)を読む。
月刊誌『サイゾー』に連載された対談がまとめられている。所々小難しい社会学の学説やら個別芸術作品の話が出てきて読み飛ばしてしまったが、両者とも二項対立的な右翼や左翼といった形式的なイデオロギーや社会観から物事を捉えることに一貫して異議を唱え、小林よしのりや「市民派」を気どる政治家を悪辣に批判する。
宮台氏は次のように述べ、過去の戦争に対する評価をいたずらに操作しようとする自由主義史観のグループや旧来の左翼の論理の欠陥を指摘する。

これから戦争を考えるときに必要なのは、戦争で死んだ人間を、生き残った人間や国家がどう評価しようが、「本人がなぜ戦ったのか」「生きてたらどうなったのか」とは全く関係のないことなのだという圧倒的な事実への敏感さです。近代国家は、大義に併せてそうした個人の時間性を利用し、動員して、戦争へと組み上げるのだから、戦争を肯定するにも否定するにも、そうした事実への想像力を働かせることが、倫理的に必要なことだと思います。

□ 日刊サイゾー、サイゾー、ウルトラサイゾー、Webマガジン □

「初期雇用契約」『ルポ解雇』

ここ数日フランスで、若者雇用促進政策「初期雇用契約」に対する学生の抗議が続いている。ソルボンヌ大学などの学生のデモも1968年のスチューデントパワーの再来のように激しいものとなっている。日本でもここ数年で劇的に正規労働者が減る一方で、パートや派遣などの非正規労働者が増加し、所得の格差がアメリカ並に拡大し、優勝劣敗の社会に変貌しようとしている。健常者すら正規採用は狭き門になっているのに、ましてやいわんや障害者をや。しかし、パリでの労働に対する熱い闘いも、マスコミの報道に接する限り日本では対岸の火事である。どうしてなのだろうか。

Paris200603

そこで、島本慈子『ルポ解雇:この国でいま起こっていること』(岩波新書 2003)を読んでみた。
島本さんは労働基準法改正案や労働裁判の過程を具に検証する中で、解雇理由の立証が経営サイドに有利に進められ、復職に向けたフォローもない現在の労働裁判の実態を明らかにする。労働は人間性の基盤そのものであり、商品でない。司法の独立により身分保障された職業裁判官に非正規雇用労働者の苦しみがどれだけ実感として分かってもらえるだろうか。
島本さんは雇用の流動化が日本社会の様相を大きく悪い方向に変えてしまうと危惧する。そして次の言葉で論をまとめている。規制改革の号令の下で雇用の保障すらも撤廃し、リストラを敢行した企業が株式ゲーム市場で評価され、一部の成功者だけを持ち上げるマスコミを巧みに操作する小泉政権に対する鋭い警鐘が含まれている。

(全日空の子会社の下請け企業で、従業員が一斉に解雇された)関西航業の人たちの言葉で心から離れない一言がある。
「身分は下であっても、一人に人間として生きる権利は同じではないか」
この叫びを踏みにじる方向へ、この国は動いている。「労働者が多様な働き方を選択できる可能性を拡大」というスローガンのもとに、企業にとって利用しやすい雇用形態が作られ、「働き方」に応じた労働条件を確保するという文句で、下に位置する者への不当な扱いも公認されていく。いま作られようとしているのは「身分によって生きる権利が変わる」社会であり、「職業には貴賎がある」という思想を公然と語る差別社会である。