永谷脩『野村克也 カニの念仏集』(ポケットブック社 1993)を読む。
通勤の途中で毎朝必ずTBSラジオの「森本毅郎スタンバイ!」という番組を聞いている。番組中毎週月曜日にスポーツコラムを担当する、少しかすれた声の永谷さんが気になって手に取ってみた。
スポーツ担当というと、選手の派手な活躍やチームの勢いを後追いすることに終始することが多いが、永谷さんは地道な取材を重ね、練習中の選手の不安や緊張、試合後の監督の心境など映像になりにくいスポーツの側面をマイクを通して伝えてくれる。過日のWBCで日本の準決勝進出が掛かったアメリカ―メキシコ戦でも、肝心の試合の中身ではなく、試合の最中に中華料理屋で昼食をとっていた内心ドキドキの王監督の一挙一動を詳細にレポートしていた。スポーツは最終的には人間ドラマであるので、こうした報道によって選手監督の人間性に直に触れることができる。
この野村監督に関する本でも、野村采配に関する技術論ではなく、野村監督のぼやきをとりあげ、野村監督に内面に迫っている。スポーツ選手たるもの、チームの中で自分を活かすには、常に他人のことに気を遣うだけの余裕が大切だという持論を展開する野村監督の人柄がよく伝わってくる。選手一人一人の個性や技量に応じて指導方法を変えていく野村監督の野球論の根底には次のような野球哲学が潜んでいる。
すべてのものは無にはじまり、無にもどると言うじゃないか。野球は雑多な要素がいっぱいあるわけで、打席に立ったときに、より無駄なものをなくすために、素直な気持ちで無にかえれるために、ミーティングをやるのだ。野球はむずかしいものだということを教えるためにやっているのではない。