『うまい!と言われる文章の技術』

轡田隆史『うまい!と言われる文章の技術』(三笠書房 1998)を読む。
朝日新聞の夕刊コラム「素粒子」を8年に亙って書き続けた著者による文章読本である。ただ情景を述べるだけで中身のない文章や一本調子でつまらない文章をちょっとした構成や表現の工夫で見違えるほどの名文になる実例が分かりやすく紹介されている。特に小論文において、「〜思う」が連続してしまうものに対してのアドバイスが印象に残った。

言葉を選ばなければ、人間としての己の心の動きを多面的に描くことはできない。「思う」のひとことだけでは、思考は同じ場所を堂々めぐりするだけで、ぐいぐいと上昇してはゆかない。もののとらえ方、考え方そのものが、乏しい語彙の中に閉じ込められてしまって一面的になり、自由に飛翔してゆかないものである。文章を書いて、論理がどうも一本調子で展開してゆかないと感じたら、心の働きを示す部分の言葉を選び直してみよう。
先刻の「心情を推し量った」を「心情を思いやった」と言いかえてみる。「功罪を考えた」を「功罪を分析した」とすれば、「考えた」と書いただけよりももっと積極的であり、心の働きを次の段階に押し進めてゆく弾みとなるにちがいない。考えの内容そのものが言葉を選択する面もある一方で、選択した言葉そのものが、考えを前へ前へと押し進めてもゆくのである。
まことに、言葉の力は偉大である。

『ちょっとした外国語の覚え方』

新名美次『ちょっとした外国語の覚え方』(講談社 1995)を読む。
北大の医学部を出てアメリカで眼科医として開業している自身の経歴を披露した上で、日本人の英語の勉強スタイルを批判し、ネイティブな環境で英語を学ぶことを説く。
はにかみ屋で消極的な性格の日本人では外国語を学べないなど、ほとんど読むに値しないような中学生向けの国際文化論が展開される。しかし、ラテン語を一度は学んでみることで、フランス語やスペイン語、ドイツ語などの他のラテン語系言語との共通性が具体的に理解できるという提言はなるほどと思った。

英語をマスターした人にとっては、ラテン語の単語は、とても覚えやすい。また、ラテン語を学ぶことは、知的刺激や知的好奇心を満たし、外国語の勉強を飽きずに続けられると思う。
ラテン語は名詞、形容詞の格の変化が多いので、本気で学び始めるとけっこう時間がかかる。しかし、入門程度の学習をしただけでも、他のロマンス語の学習の助けになる。

『雑草魂の育て方』

上原隆二・上原僚子『雑草魂の育て方』(ゴマブックス 1999)を読む。
数年前の読売巨人軍の上原浩治投手の華々しいデビューにあやかって出された本である。上原投手のキャッチフレーズともなっている「雑草魂」の生みの親であり育ての親である両親のコメントを膨らまして一冊の教育本に仕立て上げられている。一般的な文科省的教育論を否定し、「放任主義でいいじゃないか」「小さい子は叩いて教えろ」「テレビゲームも夢中になっているならどんどんやらせろ」といったように、この手の本にありがちな豪放磊落な教育論で強引にまとめられてしまう。

『「脳」を知る、「脳」を育てる』

久保田競『「脳」を知る、「脳」を育てる』(創教出版 1999)を読む。
人間の脳の活動を支えるシナプスの数は生後10ヶ月でピークを迎える。そのため生後まもなくから、五感の全てに刺激を与えることと手足の運動が幼児教育に最も大切だと説く。また、有意な言葉をしゃべらないゼロ歳児にこそ、言葉で以て話しかけることが大切だと述べる。保育園・幼稚園に入ったら、ままごとや鬼ごっこ、ヒーローごっこなどの「ごっこ遊び」が重要である。「ごっこ遊び」は脳のワーキングメモリを発育するのに最適であるそうだ。
今日は子どもが騒いで疲れたので、まとまらない文章もこの辺で。

『地平線への旅:バイクでやったぜ北極点』

子どもの睡眠リズムに付き合ってしまい、夜眠れなかったので、深夜ソファーで読書に耽った。
風間深志『地平線への旅:バイクでやったぜ北極点』(文藝春秋 1989)を読む。
表題通り1ヶ月半掛けてカナダの沿岸の島から北極海に浮かぶ氷の上を走り北極点に至るまでの冒険旅日記である。日記の途中でヒマラヤやパリダカでの苦労の回想シーンが挿入され、風間氏のスケールの大きい冒険談が同時に展開される。風間氏は「冒険」について次のように定義付けする。

冒険は、一般的にはその多くが学術的意義を伴う「探検」と違い、きわめて私的な行為であるといえる。最高峰の頂に立とうが、大海原を航海しようが、その結果が目に見えて社会や人類に、何かをもたらすというものではなく、「なんと酔狂で、もの好きなことよ!」と言われれば、全くそのとおりに違いない。
俺にとっての冒険は、もっと生きたいから、もっとよりよく生きるために、その未知なる空間へ第一歩を踏み出す行為なのである。たとえ、冒険はいのちを擦り減らす行為だという、一つの定義に甘んじたとしても、人生すべからく自分の肉体を張って生きているようなものなのだ。それならば、自分の意思において、自分の納得するいのちの擦り減らし方をする方がずっとましだといえる。きっかけ、入口?は、一人一人何であってもかまわない。(中略)冒険は、入口が何であれ、スタイルが何であれ、それが代償のない精神の旅である限り、その出口は、自然・人間・宇宙の”真理”に近づこうとする意志という、一つのところへ繋がっているような気がするのだ。