日別アーカイブ: 2023年2月26日

『瞬間の記憶』

林京子『瞬間の記憶』(新日本出版社 1992)を読む。
著者は2017年に87歳で亡くなっている。長崎での被曝体験を元に数多くの小説を発表され、『祭りの場』で、第18回群像新人文学賞、および第73回芥川賞を受賞している。

この作品は小説ではなく、1977年から92年にかけて新聞や雑誌『世界』や『群像』『新潮』などに発表したエッセーがまとめられている。被曝体験よりも、1981年の東京新聞に掲載された次の一節が印象に残った。

(シンポジウムに参加して)印象深かったのは、選択の情報を用意しながら、一元化が計れる時代でもある、という危険性を指摘した発言である。豊富に選択の材料を用意しながら、心理的にマスへの操作があり得るのではないか。目的をもった情報のなかで選択を強いられ、無意識のうちに集団化している-。情報の受け手である私たちが、最近特に感じていた情報の傾向化なので、怖い指摘だった。この怖さは、無個性時代といわれながら、やはり群れたがる、個性への疑問体と思う。個性派の代表のようにいわれるタケノ子族にしても、あるものから選んでいるだけで、選ぶ個々に、独創性はない。

さらに集団化することで、個人は没個性的になり、逆に、集団としての特色を生み出していく。屈するつもりのない個が集団に抱き込まれて、目的をもった個性になって動き出す。選ぶ目を鍛えねば、また知らぬ間に統制されたマスに巻き込まれてしまう。

「処理水海洋放出準備着々」

本日の東京新聞朝刊に、福島第一原発事故の汚染水の海洋放出に関する意見交換会の様子の記事が掲載されていた。経済産業省側は「今春から夏頃」にかけて放出を開始する前提ありきで話を進めているので、地元の漁業関係者との議論が平行線を辿っているという。

しかし、「ちょっと待てよ」と言いたい。福島県沖から放出された汚染水は亜熱帯循環の海流の流れに乗って北米大陸の方まで流れていくことが分かっている。実際、東日本大震災の津波で流された物がカリフォルニア州で発見されている。

公海に流してしまえば、誰も文句を言わないという発想と、北朝鮮のミサイルがEEZの内外に落ちたことを殊更に非難する姿勢は、いささか矛盾するのではないだろうか。もちろん、北朝鮮政府がミサイルを飛ばすことを良しとしているのではない。  北朝鮮のミサイルに反応するのと同じ熱量で、この福島第一原発の汚染水が議論されなくてはならない。

現在、福島第一原発の建屋に残された燃料デブリ(溶け落ちた核燃料)を水で冷やし続ける作業が行われている。冷やさないと、どんどん熱が溜まっていき、やがては爆発を起こすからである。しかし、一体事故後、どのような状態で溜まっているのかという確認すらとれていないのが現状である。放射能が強すぎて人間が近づくことができないのだ。だから原始的に水で冷やし続ける作業が10年以上に渡って続いている。その汚染水は1〜3号機合計で1日に100t発生しており、すでに敷地内の処理水タンクの96%が埋まっている。

さきほど「ちょっと待てよ」という言葉を用いたが、「すでに待ったなし」である。燃料デブリを取り出すまであと20年とも30年とも言われる。それまでずっとトリチウムを含む処理水を流し続けるのか。私たちは、北朝鮮の核ミサイル以上に危険極まりない第一原発事故に向き合わなくてはならない。その現実を伝えられる授業を目指したい。