小川榮太郎『約束の日 安倍晋三試論』(幻冬舎 2012)を読む。
読むに耐えない内容であった。民主党政権時に執筆された本で、閣僚の不祥事やマスコミのエゲツない批判で辞任に追い込まれた安倍晋三の復帰を願って、徹頭徹尾ヨイショする提灯記事である。
筆者は音楽評論を専門としているだけあり、文体は「マンションポエム」さながらである。
(江藤純が言論世界への挑戦に対して「弱さ」を抱えていたという見解に続いて)しかし、「弱さ」を抱えていない理想家などというものがあるだろうか。「弱さ」とは無縁なほど、物を感じる力のない人間に、どのような高い戦いができるだろう。それは単なる「弱さ」ではない。負けを承知で戦いに挑む真の勇者の「弱さ」、いわば高貴な「弱さ」である。おそらく、同質の「弱さ」を抱えながら、「どのような勇者もしり込みするような責務を引き受け」る首相として登場したのが、安部だった。三島由紀夫の切腹は、安倍首相の「戦後レジームからの脱却」によって、文学者の狂熱から救われ、穏当で希望に満ちた政治言語化された。
(中略)安倍は、このように、日本を高い精神的位相で守ろうとした高貴な血脈に連なっている。平成の日本人には極めて稀な資質だ。
「安倍の応援団」といった括りがあるが、おそらくは著者のような訳の分からない取り巻き連中のアイコンが安倍晋三なのであろう。
1度目の政権時に、閣僚の不祥事とマスコミや野党の追求に真っ当に向き合ったために政権を放り出したという反省から、現安倍政権では閣僚の不祥事に全く取り合わず、マスコミや野党の追求を徹底して騙くらかす知恵を身に付けたという点は十分に理解できた。