貨幣論・金融論
Smithによれば,貨幣とは「流通の大車輪にして,商業の偉大な用具である」であり,金属貨幣に代替する紙幣については,「経費のずっとかからない便利な道具」であると述べる。さらに,金銀貨の価値を保証する紙幣を市場に円滑に,かつ十二分に流通させ,経済活動水準を高める銀行業の役割を取り上げる。そして,紙幣の供給の過剰が金融危機を招いた事例を挙げ,銀行業の政府による規制の必要性を説く。
生産的労働と不生産的労働
生産的労働とは,製造工のように,資本によって雇用され,利潤を付加して再生産される労働である。これに対して,不生産労働とは,家事使用人や官吏,軍人等のように,収入によって雇用され,消費するだけで何も残さない労働である。「資本が優勢なところでは勤勉が広がり,収入が優勢なところでは怠惰がはびこる」とSmithが述べたように,国家財政を視点にすると,生産的労働者が多いほど,資本が毎年再生産され,富裕が実現される。
資本蓄積論
Smithは「全ての浪費家は公共社会の敵であり,節約家はすべてその恩人である」と述べ,生産的労働者を雇用する資本は,人々の貯蓄によって増大し,浪費によって減少するため,浪費を断罪している。また,「国王や大臣こそ,常に例外なく社会における最大の浪費家なのである」と述べ,特に公的浪費=戦争こそが最大の国家破滅の要因だと断じる。さらに,「自分の生活状態の改善をめざしての,あらゆる人間の画一的な恒常不断の努力こそは,…政府の濫費や行政上の最大の過誤にもかかわらず,改善をめざす事物自然の進歩を維持するにたりるほど強力な場合が多い」と,重商主義を遂行するための戦争による政府の浪費が,たとえ富裕の自然的進歩を遅らせるとしても,個人の節約と善行が,あらゆる浪費を償ってきたのである。
重商主義批判
重商主義政策は,国内の特定産業による国内市場の独占を招き,商品価格と利潤率とを著しく引き上げ,他産業から資本と労働とが当該産業に片寄る結果となり,自由競争によって実現される自然な資源配分を妨げ,資本蓄積を妨げて富裕の進歩を遅らせることになってしまう。資本を有する各個人は,人為的な政策の妨げがなければ,社会の利益などではなくて単に自分の利益だけを追究して,資本を最も有利な方法で用いようとするものであり,その結果として,全生産物の価値と社会の収入とは最大になるのである。Smithは,道徳的感情に規制された個人の利己的な行動が,社会全体に寄与し,自然的秩序による社会が形成されるという考えのもと,重商主義に見られる個人の経済生活に対する政治の介入を厳しく否定したのである。
「見えざる手」
「外国の産業よりも国内の産業を維持するのは,ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは,自分自身の利益のためなのである。だが,こうすることによって,かれは,ある見えざる手に導かれて,自分では意図していなかったある目的を促進することになる」
『国富論』の中では上記のように述べられており,人間生来の賢明さを前提とし,決定論的・予定調和的なキリスト教的な考え方に根ざしたものである。
自由貿易論
Smithは,自由放任主義者と捉われる節もあるが,国内経済を混乱させない程度の一定の関税と輸出奨励金を認めていた。そして,「植民地貿易の排他的独占を許している諸々の法律を適度に漸次的に緩和」し,「完全なる自由・正義の自然的秩序」を実現するための過程において政府の規制・介入の必要性を述べる。また,「消費こそは全ての生産にとっての唯一の目標であり,かつ目的である。従って,生産者の利益は,それが消費者の利益を促進するのに必要な限りで配慮されるべきものである」と述べ,生産者の利益を保護する重商主義を厳しく批判している。
自然的自由の体系
輸入制限と輸出奨励策が漸次的に全て撤廃され,自然的自由な社会が実現されるならば,国家は防衛・司法・一定の公共事業を担うだけで,各個人は「正義の法を犯さぬかぎり」完全自由に委ねられるべきものである。
財政論
Smithの財政政策は,いわゆる「安上がりの夜警国家」として巷間知られるが,自然的自由の体系を実現するための障害は政府の叡智によって除去して行くべきだと何度も強調している。すなわち司法による正義の実現や国防,教育制度,貧困対策などは,「利己心に基づく分業という文明社会の大原理に対する顕著な例外」であるとしている。特に教育については,単純作業が人間を愚鈍・無知にし,精神を麻痺させ,判断力もなく武勇の精神も朽ちさせてしまうと分業による非人間的なマイナス面を指摘し,政府による「全人的」な教育政策の配慮を強調している。