大庭みな子『夢を釣る』(講談社 1983)を読む。
1975年から1982年の8年間の間に文学雑誌や文学全集に寄せたエッセーがまとめられている。
1982年6月の『群像』に掲載された「呼び出すほら穴」という文章の一節が印象に残ったので引用してみたい。
(夫の仕事の都合で30代の10年間を言葉の通じないアラスカで過ごした経験に触れて)
その十年間は、私の人間に対する柔軟性と、孤独に耐える力を養ってくれてような気がする。途方もない想像力を孤独にひろげて深める持続力を幾分か得た。外国だったし、余りにも異質なものに囲まれていたから、想像力がなければ、生存が不可能だということもあった。また、その想像力が間違っている場合、ひどい困難に陥ることで、自分の誤りを認めざるを得ないということもあった。
比較的同質なものに囲まれていると、日常生活で、想像力がなくてもあまり困らないので、想像力が貧しくなる。そして、そういう癖がついてしまうと、異質なものに入っていくのがだんだん億劫になってしまう。
「想像力が貧しくなると異質なものに入っていくのが億劫になる」という言葉が正鵠を得ていると思う。想像力を逞しくしておかないと、人間は他人の意見や「常識」なるものに流され、自分の近眼な目に見えるものだけで物事を捉えてしまうようになる。そうすると、目に見えない他人のことが分からなくなり、そして無関心になる。さらには、自分の本質や本音すら分からなくなってしまう。
現在の自分が
1975年9月の潮刊『人間の世紀第5巻・政治と人間』に所収された「異質なもの、文学と政治」の中で大庭さんは次のように述べる。
私にとって文学とは、あるひとつの人格内部にかかわるものであり、結果的に他の人間とのつながりを引き起こすものであるにしても、現在の状況における社会的人間たちをある妥協のもとに、どうにかとりまとめるといった仕事とは本質的に異質の、人間内部の一種の「夢」である。
(中略)
「文学」とは言語をもって人間の願望と夢を語る虚構の世界であり、けっして社会科学的な考察ではない。もちろん、ある作品の中で社会科学的考察や、政治的見解や、哲学的論理の究明が述べられていることはあるかもしれないが、それはあくまでその文学の本質的な部分ではない。文学とは「世界」の中で戸惑う人間の内面の一種不可思議な感動を、言語によって表現する芸術であり、その根底にあるものは音楽や絵画や舞踊、演劇などを生み出すと同じ、ほとんど原始的な、官能的詩神なのである。
文学は合理的なものを好まない。というよりは合理的なものを信用しない。不確定性原理とか、確率とは偶然とかいったものにみちみちている人生に対する絶望と、懐疑から生まれた人間の嘆きといったものが文学である。無数の個を全体として取り扱う平均値、などということは文学にとっては興味のないことなのだ。文学とは社会という性能のよい機会を組み立てる、規格に合った部分品にはけっしてなれない人間の心である。そして、それ故にこそ文学は全ての人間にとって思いあたるふしのある嘆きでもあるのだ。
大庭さんは、「政治と文学