本日の夕刊の作家星野智幸氏のコラムが目を引いた。「右傾化」、そしてその延長としての「自由経済礼賛」の起源が1999年にあるという彼の指摘は共感できる。1995年の阪神大震災とオウム事件によって社会の不安が増大し、警察の活躍を鼓舞する番組が乱発され、それらを囲い込むように「国家」が法的に前面に現れだしたのがちょうど1999年辺りだったと思う。
来年は2009年だが、1999年の日記に私は次のようなことを書いている。
「1999年は日本の右傾化元年だと記憶することにしている。右傾化とは、国旗国歌法や通信傍受法を成立させガイドライン改定を行なうといった出来事だけでなく、自己を何か曖昧で集団的なものに委ねることが本格的に始まった動きを指す。オウム真理教の代わりに、誰もが納得でき言い訳の立つものに帰依しようとしている。そして政治がそれにお墨付きを与える」
当時の私は、「何か曖昧で集団的なもの」が「日本」であり、ナショナリズムが沸騰して全体主義的な暴走を始めることを危惧していた。
けれど右傾化十年目を迎える今の社会を見渡せば、日本社会がいかに壊れているかばかり目立ち、国に「誇り」を持つどころではない。
今から思えば、十年前に起こっていたのは、「国権の発揚」だったのだろう。それまでの主権在民を尊重する姿勢をかなぐり捨て、国家が権力をあからさまに振るい始めたのだ。九〇年代の停滞を一気に変えてくれるかもしれないと期待して、小渕政権や小泉政権に帰依した結果、国民は国の経済に奉仕する奴隷と見なされた。「日本」に身を委ねれば委ねるほど、隷属させられ、搾り取られ、使えなくなれば捨てられる。
この状況を一気に打開してくれるカリスマを求めるような真似はもうやめにして、来年こそは自分たちで変える意思を持とうではないか。この十年をさらに悪い形で繰り返さないためにも。