先日、埼玉県の高校の国語教育関係の集まりがあり、東京大学大学院教授の小森陽一氏の講演会に参加した。巧みな語り口で、自身の経歴から始まって、自己紹介と兼ねながら日本語の問題、文学の問題、教育のあり方にまで話が広がっていった。
早速、小森陽一『小森陽一、日本語に出会う』(大修館書店 2000)を手に取ってみた。
講演会の話の原稿のようで、学生時代の日本語に対する疑義や、実際に「国語」を教える立場に立った時の発見や考察が分かりやすく書かれている。
小森氏は一貫して、日本語を正しく使うことと、言葉を媒介にして成り立つ認識や想像、コミュニケーションは決してイコールではないと述べる。あらゆる言葉は、歴史的、社会的、そして人間関係の中で多様な意味を持つものであり、一つの意味に限定されるものではない。しかし、特に学校教育で用いられている先生用の指導書には、「正しい」一つの意味のみ取り出し、そして一つの解釈、一つのイメージしか掲載されない。こうした画一的な指導書を用いた授業をすればするほど、教師の一方的な理解の押しつけに繋がり、言葉に対する感性が悪くなっていくと警告する。
しかし、一方で、言葉の解釈は全く自由ではない。詩や童話、小説などの言葉も、その物語世界における時代状況、社会状況の中で厳密に定義されるべきである。小森氏は自身の大学における文学の授業について、「一つの言葉が持っている歴史的、文化的、社会的なコンテクストを、できうる限り再現する形でテクストとかかわっていくことができるかどうか、これが私が学生たちに提示している基本作業です」と振り返っている。
小森氏は、辞書に載っている「正しい」言葉の意味に拘泥されることなく、その時代、社会を緻密に調べて、その言葉の使われかたを浮かび上がらせていく作業が文学には求められると述べる。そしてそういった一つの生きた言葉の追究を通じることで、他者を理解する力が養われると結論づける。最後に著者は次のように述べる。
ある言語を「教える」、「国語」を「教える」という強迫観念にとりつかれると、人と人との間を「交通」する媒体であるはずのことばが、あたかも知識の体系であるかのように思えてしまいます。その瞬間に、「正しい」ことばと「まちがった」ことばという差別が持ち込まれることになります。すると、「国語」としての「日本語」が、あたかもゆるぎない一つの制度的な体系としてすでに存在しているかのような幻想が生み出されていきます。この幻想にとりつかれると、「日本語」を本当に理解するためには、あるいは正しく使用するためには、脈々とその背後に流れている「日本文化」や「日本事情」を知らなければならないという、文化本質主義におちいることになるのです。
ここまで来ると、かつてアイヌ・モシリや琉球列島で展開された、言語的かつ文化的な「同化」主義、台湾や朝鮮半島で展開された「皇民化」政策まであと一歩、ということになりかねません。私自身は、言語や文学は「教える」ことのできる領域ではないと考えています。もう少し正確に言うと、まず何かを「教えなければならない」という強迫観念から解放されたいと願っています。