白石昌則・東京農工大学の学生の皆さん『生協の白石さん』(講談社 2005)をすき間の時間に読む。
東京農工大学の生協で、学生からの一言カードを担当している白石さんのコメントが絶妙だと、ある学生がネット上のブログで紹介したことで話題に火がついたことがきっかけで書籍化されたとのこと。
「愛は売っていないのですか…?」(学生)とのコメントに対して、「どうやら、愛は非売品のようです。もし、どこかで販売していたとしたら、それは何かの罠と思われます。くれぐれもご注意ください。」(白石)といった風に一言二言であるが、学生と白石さんとの間の暖かい交流が描かれる。
月別アーカイブ: 2008年12月
本日の東京新聞朝刊
本日の東京新聞朝刊の「本音のコラム」に「動物農場化」と題したジャーナリスト堤未果さんの文章が載っていた。ソフトな語り口から、社会状況に話が拡がっていき、そして自己の置かれている立場へ話が展開していく、左派系団体の上品なビラ文のような文章である。
小論文指導の上でも、是非参考にしたい流れである。
G・オーウェルの「動物農場」のアニメが今月から上映される。搾取されていた動物たちが革命を起こし人間を追放、動物だけの農場を始めたが次第に情報操作や監視社会化が進み、気づいた時には一部の特権階級の豚の下、再び搾取されていたという有名な寓話だ。
この映画を初めてみたのは米国留学中で、どれだけ働いても平等に扱われない動物たちの姿に私たち学生は胸を痛めて怒りを覚え、政治学ではモデルになったレーニン独裁政権のレポートを書かされた。一体あの時誰が予想しただろう。時が流れて今度は自分たちの住む社会が「動物農場化」することを。富と権力が一部に集中し、顔のない大量の労働者が這いあがれない仕組みの野か、使い捨てにされる。その仕組みをつくる肝心な政策は教育・情報格差により一部の豚にしか理解できないため、政治に無関心になる動物たちが知らぬ間に決められた法律に従う社会。寓話はそれが現実の向こう側にある限り、私たちを冷静で心優しい傍観者でいさせてくれる。
だが自国にとって「動物農場」がもはやエンターテインメントでなくなった時、人はそれぞれの武器を再び手にするだろう。教育やペン、思いを共有する仲間やまだ失われていない一票の力。革命は一夜で消える炎ではない。半世紀たって豚たちの顔は変わり、私たちは試され続けている。
『デスレース』
ララガーデン春日部へ、ポール・W・S・アンダーソン監督『デスレース』(2008 米)を観に行った。
ずばり「18禁マリオカート」とネーミングしていいような単純明快な映画で、ゴテゴテに武装した車で刑務所からの釈放を掛けて命がけのレースを行なう大人版『チキチキマシン猛レース』が、ヒップホップ系の音楽が鳴り響く中で繰り広げられる。
椅子に座って観賞するというよりも、男同士でビールでも飲みながら眺める「B級」映画であるが、仕事でのストレスの解消の一助となった気がする。
それにしても、アメリカ映画には刑務所を舞台にしたものが多い。日本を含めた他国の映画にはあまり見られない傾向である。司法が身近な存在である米国民の風潮の反映であろうか。それとも刑務所で自らの罪の意識を再認識するというキリスト教の原罪意識の顕れであろうか。
□ 『デス・レース』2008年11月29日(土)有楽座ほか全国ロードショー □
『小森陽一、日本語に出会う』
先日、埼玉県の高校の国語教育関係の集まりがあり、東京大学大学院教授の小森陽一氏の講演会に参加した。巧みな語り口で、自身の経歴から始まって、自己紹介と兼ねながら日本語の問題、文学の問題、教育のあり方にまで話が広がっていった。
早速、小森陽一『小森陽一、日本語に出会う』(大修館書店 2000)を手に取ってみた。
講演会の話の原稿のようで、学生時代の日本語に対する疑義や、実際に「国語」を教える立場に立った時の発見や考察が分かりやすく書かれている。
小森氏は一貫して、日本語を正しく使うことと、言葉を媒介にして成り立つ認識や想像、コミュニケーションは決してイコールではないと述べる。あらゆる言葉は、歴史的、社会的、そして人間関係の中で多様な意味を持つものであり、一つの意味に限定されるものではない。しかし、特に学校教育で用いられている先生用の指導書には、「正しい」一つの意味のみ取り出し、そして一つの解釈、一つのイメージしか掲載されない。こうした画一的な指導書を用いた授業をすればするほど、教師の一方的な理解の押しつけに繋がり、言葉に対する感性が悪くなっていくと警告する。
しかし、一方で、言葉の解釈は全く自由ではない。詩や童話、小説などの言葉も、その物語世界における時代状況、社会状況の中で厳密に定義されるべきである。小森氏は自身の大学における文学の授業について、「一つの言葉が持っている歴史的、文化的、社会的なコンテクストを、できうる限り再現する形でテクストとかかわっていくことができるかどうか、これが私が学生たちに提示している基本作業です」と振り返っている。
小森氏は、辞書に載っている「正しい」言葉の意味に拘泥されることなく、その時代、社会を緻密に調べて、その言葉の使われかたを浮かび上がらせていく作業が文学には求められると述べる。そしてそういった一つの生きた言葉の追究を通じることで、他者を理解する力が養われると結論づける。最後に著者は次のように述べる。
ある言語を「教える」、「国語」を「教える」という強迫観念にとりつかれると、人と人との間を「交通」する媒体であるはずのことばが、あたかも知識の体系であるかのように思えてしまいます。その瞬間に、「正しい」ことばと「まちがった」ことばという差別が持ち込まれることになります。すると、「国語」としての「日本語」が、あたかもゆるぎない一つの制度的な体系としてすでに存在しているかのような幻想が生み出されていきます。この幻想にとりつかれると、「日本語」を本当に理解するためには、あるいは正しく使用するためには、脈々とその背後に流れている「日本文化」や「日本事情」を知らなければならないという、文化本質主義におちいることになるのです。
ここまで来ると、かつてアイヌ・モシリや琉球列島で展開された、言語的かつ文化的な「同化」主義、台湾や朝鮮半島で展開された「皇民化」政策まであと一歩、ということになりかねません。私自身は、言語や文学は「教える」ことのできる領域ではないと考えています。もう少し正確に言うと、まず何かを「教えなければならない」という強迫観念から解放されたいと願っています。
本日の東京新聞夕刊
本日の東京新聞夕刊に、東京都が都内の障害児学校(盲・聾・特別支援学校)に設置した寄宿舎を段階的に廃止していることに対して、保護者らが再考を求め、都議会に請願するための街頭署名活動を展開しているとの記事が掲載されていた。
記事によると、都は4年前に「特別支援教育推進計画」の中で、寄宿舎を2015年までに地域バランスを考え5つに減らす方針を発表した。その方針に従い、昨年度までに2校、そして来年度は立川聾学校、2010年度には江戸川特別支援学校の寄宿舎を閉鎖するということだ。公共交通機関の発達やスクールバスの充実などで通学が難しい生徒が減ったというのが大きな理由だ。それに対して保護者の一人は「安心して楽しい時間を過ごさせてあげたいという願いを、なぜ聞き入れてもらえないのか」と都の方針に反発を強めている。
記事を読んでの感想だが、交通事情や利用人数だけで廃止を推し進める都の方針は、一人一人の教育的ニーズを支援するという特別支援教育のそもそもの理念に反することなので賛成できない。しかし、単に安くて安心だからと特別支援学校の生徒しか入れない寄宿舎を残すことも、卒業後の福祉や医療と教育の連携を謳う特別支援教育の考え方に反する。
特別支援学校の「寄宿舎」と一括りに捉えるのではなく、あくまで生徒一人一人の教育的ニーズと卒業後の進路を見据えた教育的支援という観点から考えなくてはならない。一般に盲・聾学校については、発声や手話など一貫した教育課程を持っているので、寄宿舎は残すべきであろう。一方で特別支援学校(養護学校)については卒業後を考えて、寄宿舎ではなく、地域の施設の弾力的な活用を考えていくべきだと思う。